ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第11話 母のラベンダー
水曜の二十二時半。スイートの廊下は、絨毯が音を飲み込み、照明の輪だけが足元を淡く照らしていた。
優は洗い終えたタオルを抱え、クローゼットの前で立ち止まる。扉を開けた瞬間、ふわりと花の匂いが混じった。甘さが強いわけではなく、涼しい風が肌を撫でたあとに残る、薄い紫の気配。
「……また、この匂い」
最近、夜になると同じ匂いがする。ホテルの芳香剤だろうかと流していたが、今夜は扉の内側から、はっきりと出てきた。
ハンガーの隙間に、布がひらりと揺れている。灰色がかった淡い紫のスカーフ。触れれば崩れそうなほど薄いのに、縁だけが丁寧に縫い留められていた。
優は反射で手を伸ばし、指先で布をつまんだ。匂いが強くなる。
ふと、浴室の蒸気で髪が広がるのを思い出し、これでまとめられるかも、と一瞬だけ考えてしまう。すぐに首を振る。ここは自分の家ではない。しかも、明らかに大事に扱われている。
「……洗濯物と一緒にしないほうが、いいかも」
独り言が、小さく廊下に落ちた。
背後で、ドアの開閉の音。優は振り向くより先に、肩が固くなるのを感じた。
「それ、触った?」
颯人の声は低い。怒っているわけではないのに、濡れた床に足を取られたみたいに、優の心が一瞬すべった。
「ごめんなさい。匂いがして……。片づけたほうが、いいのかなって」
優はスカーフを両手で支え直し、縁を丸めるように持った。汚したくない。そう思ったのが、自分でも意外だった。
颯人は優の手元を見て、息を浅く吐いた。怒鳴りもしない。奪い取りもしない。けれど、視線だけが一度、遠いところへ行く。
「……片づける、じゃない。しまってある」
言葉の選び方が慎重で、優は返す言葉を探せなかった。
颯人は近づき、スカーフの端をそっと受け取った。指先が震えていないことに、優は気づく。震えていないのに、やけに丁寧だ。
「母のだ」
短い一言が、クローゼットの中へ落ちた。
優は、何も言わずに頷いた。背中に、昨夜の冷蔵庫の冷たい感触がよぎる。泣いたあとの息が、まだ胸の奥に残っている。
颯人はスカーフをいったん棚に置き、手を膝の横で握り直した。握って、ほどいて、また握る。
「匂いの正体、気になってたよな」
「……はい。嫌な匂いじゃないです。だけど、夜だけだから」
「母が、病室で笑ってくれたときの匂いだ」
颯人は言ってから、自分の言葉を確かめるように、まぶたを一度閉じた。
病室と聞いて、優は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。金属のベッド柵。消毒液の強い匂い。夜の静けさの中で鳴る機械の音。勝手に浮かんだ光景を、優は息で押し戻す。
颯人は、話を続けた。焦っていない。息継ぎのたびに、言葉が削られていく。
「母は、俺が支配人になる前から、ホテルの匂いが好きだった。ラベンダーの小さい瓶を持っててさ。眠れない夜に、枕元に一滴落として……『これで呼吸が楽になる』って」
「……それを、ずっと」
「捨てられなかった。使えば減るだろ。減るのが怖い。……変な話だな」
颯人は笑おうとして、口の端だけが少し動いた。笑いになりきらない形が、優の目に残る。
優は、言葉を飲み込み、代わりに視線を手元へ落とした。スカーフの繊維が光を拾う。長い時間、誰かの手の中で守られてきた布だ。
「怖い、って言えるの、すごいです」
優は、そう言ってから、しまったと思った。褒めるつもりが、薄っぺらく聞こえる気がした。
でも颯人は、否定しなかった。代わりに、棚の奥から小さな箱を出す。箱の底には、細いガラス瓶。蓋を開けないのに、匂いだけが立ち上ってきた。
「母が最後に言ったのがな……『ありがとうは、言わないと届かない』って」
颯人は、箱を両手で支えたまま、優のほうを見た。
「俺は、間に合わなかった。忙しいふりして、言いそびれた。……だから、同じことをもう一回やるのは嫌なんだ」
優は息を吸って、吐いた。今度は、逃げるみたいに笑わないと決める。
「昨夜、私が『ありがとう』って言ったとき、颯人さん、逃げませんでした」
優は言いながら、自分の声が少し震えているのを自覚した。震えているのに、目線は外さなかった。
「私は、逃げる癖があるんです。笑ってごまかして、手を動かして……『私がやりました』って言えば終わると思って」
言い終えて、優は自分の指先を見た。泡立て器を握る指の形を、今は空のまま覚えている。
颯人は、ほんの少しだけ肩を落とし、箱を閉じた。
「逃げたくない。……覚えてるうちに、言っておく」
そう言って、颯人はクローゼットの扉を閉めた。優のほうへ向き直る。
「匂いが気になるなら、言ってくれ。無理はさせない」
「無理じゃないです」
優は即答してから、慌てて付け足した。
「……ただ、匂いの理由が分かったら、勝手に消したくなくなっただけです」
颯人の眉がわずかに上がった。驚いた顔のまま、口を開いて、閉じる。
優はその隙に、スカーフをもう一度、丁寧にたたみ直した。四角に揃える。角を折る。空気を抜くように手のひらで撫でる。仕込みのときと同じ指の動きだった。
「私……明日の朝、少しだけ使っていいですか」
「何を?」
「ラベンダーの匂い。食べ物のほうで。……一滴だけ」
優は言ったあと、急に恥ずかしくなり、耳の熱さをごまかすように視線を横へ逃がした。断られたら、どうする。自分は勝手なことを言っていないか。
颯人は、しばらく黙っていた。優は、その沈黙が怖くなかった。昨夜、隣にいた人だ。今日も、逃げない。
「一滴なら」
颯人はそう言って、箱を抱えたまま頷いた。
「減るのが怖いって言ったのに、変だな」
「変じゃないです。減った分、匂いが誰かに届きます」
優は言い切ってから、ようやく息を吐いた。胸の内側が、静かに温かい。
翌朝、まだ暗い五時半。優はスイートのキッチンで小さなボウルに砂糖を落とし、湯気の立つ鍋の前に立った。
瓶の蓋を開ける。ラベンダーは空気の中で薄くひらく。優は自分の指先に一滴だけ落とし、シロップの表面に触れさせた。香りが溶けた瞬間、昨日のクローゼットの静けさが、ふっと思い出になる。
颯人は湯気の上がる鍋を一度見てから、何も言わずに流しへ向かった。昨夜、優が泣いた台の上に、今朝はボウルが並んでいる。その横に立ち、颯人は洗剤の量を迷い、指先で少しだけ出しては引っ込めた。
優はその様子を見て、笑いそうになって堪えた。代わりに、木べらで鍋底をゆっくりなでる。焦げつかせない速度。自分の呼吸と同じ速さ。
颯人がボウルを持ち上げたとき、優は小さく首を振った。
「今は、置いておいてください。あとで……一緒に洗います」
颯人は一瞬きょとんとして、それから、ゆっくり頷いた。置く音がやけに静かだった。
仕上げに、小さなクッキーを一枚。焼き色は淡い。割れ目はない。
優は皿に置き、テーブルへ運んだ。
颯人はシャツの袖をまくり、コーヒーを淹れていた。昨夜の話が嘘みたいに、いつもの手順でカップを並べる。
優は皿を差し出し、言った。
「一滴だけです。……届くか、試してみたくて」
颯人はクッキーを割らずに口へ運び、しばらく噛んでから、目を細めた。
「……ラベンダーだ」
言い切ったあと、颯人はカップを持ち上げ、優のほうへ少しだけ傾けた。
「届いた。ありがとう」
優はその一言に、胸の奥がきゅっと鳴った。今度こそ、逃げずに返す。
「こちらこそ。昨日、話してくれて」
優は、今度は笑っていいと思えた。
「はい。母のラベンダーです」
優は洗い終えたタオルを抱え、クローゼットの前で立ち止まる。扉を開けた瞬間、ふわりと花の匂いが混じった。甘さが強いわけではなく、涼しい風が肌を撫でたあとに残る、薄い紫の気配。
「……また、この匂い」
最近、夜になると同じ匂いがする。ホテルの芳香剤だろうかと流していたが、今夜は扉の内側から、はっきりと出てきた。
ハンガーの隙間に、布がひらりと揺れている。灰色がかった淡い紫のスカーフ。触れれば崩れそうなほど薄いのに、縁だけが丁寧に縫い留められていた。
優は反射で手を伸ばし、指先で布をつまんだ。匂いが強くなる。
ふと、浴室の蒸気で髪が広がるのを思い出し、これでまとめられるかも、と一瞬だけ考えてしまう。すぐに首を振る。ここは自分の家ではない。しかも、明らかに大事に扱われている。
「……洗濯物と一緒にしないほうが、いいかも」
独り言が、小さく廊下に落ちた。
背後で、ドアの開閉の音。優は振り向くより先に、肩が固くなるのを感じた。
「それ、触った?」
颯人の声は低い。怒っているわけではないのに、濡れた床に足を取られたみたいに、優の心が一瞬すべった。
「ごめんなさい。匂いがして……。片づけたほうが、いいのかなって」
優はスカーフを両手で支え直し、縁を丸めるように持った。汚したくない。そう思ったのが、自分でも意外だった。
颯人は優の手元を見て、息を浅く吐いた。怒鳴りもしない。奪い取りもしない。けれど、視線だけが一度、遠いところへ行く。
「……片づける、じゃない。しまってある」
言葉の選び方が慎重で、優は返す言葉を探せなかった。
颯人は近づき、スカーフの端をそっと受け取った。指先が震えていないことに、優は気づく。震えていないのに、やけに丁寧だ。
「母のだ」
短い一言が、クローゼットの中へ落ちた。
優は、何も言わずに頷いた。背中に、昨夜の冷蔵庫の冷たい感触がよぎる。泣いたあとの息が、まだ胸の奥に残っている。
颯人はスカーフをいったん棚に置き、手を膝の横で握り直した。握って、ほどいて、また握る。
「匂いの正体、気になってたよな」
「……はい。嫌な匂いじゃないです。だけど、夜だけだから」
「母が、病室で笑ってくれたときの匂いだ」
颯人は言ってから、自分の言葉を確かめるように、まぶたを一度閉じた。
病室と聞いて、優は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。金属のベッド柵。消毒液の強い匂い。夜の静けさの中で鳴る機械の音。勝手に浮かんだ光景を、優は息で押し戻す。
颯人は、話を続けた。焦っていない。息継ぎのたびに、言葉が削られていく。
「母は、俺が支配人になる前から、ホテルの匂いが好きだった。ラベンダーの小さい瓶を持っててさ。眠れない夜に、枕元に一滴落として……『これで呼吸が楽になる』って」
「……それを、ずっと」
「捨てられなかった。使えば減るだろ。減るのが怖い。……変な話だな」
颯人は笑おうとして、口の端だけが少し動いた。笑いになりきらない形が、優の目に残る。
優は、言葉を飲み込み、代わりに視線を手元へ落とした。スカーフの繊維が光を拾う。長い時間、誰かの手の中で守られてきた布だ。
「怖い、って言えるの、すごいです」
優は、そう言ってから、しまったと思った。褒めるつもりが、薄っぺらく聞こえる気がした。
でも颯人は、否定しなかった。代わりに、棚の奥から小さな箱を出す。箱の底には、細いガラス瓶。蓋を開けないのに、匂いだけが立ち上ってきた。
「母が最後に言ったのがな……『ありがとうは、言わないと届かない』って」
颯人は、箱を両手で支えたまま、優のほうを見た。
「俺は、間に合わなかった。忙しいふりして、言いそびれた。……だから、同じことをもう一回やるのは嫌なんだ」
優は息を吸って、吐いた。今度は、逃げるみたいに笑わないと決める。
「昨夜、私が『ありがとう』って言ったとき、颯人さん、逃げませんでした」
優は言いながら、自分の声が少し震えているのを自覚した。震えているのに、目線は外さなかった。
「私は、逃げる癖があるんです。笑ってごまかして、手を動かして……『私がやりました』って言えば終わると思って」
言い終えて、優は自分の指先を見た。泡立て器を握る指の形を、今は空のまま覚えている。
颯人は、ほんの少しだけ肩を落とし、箱を閉じた。
「逃げたくない。……覚えてるうちに、言っておく」
そう言って、颯人はクローゼットの扉を閉めた。優のほうへ向き直る。
「匂いが気になるなら、言ってくれ。無理はさせない」
「無理じゃないです」
優は即答してから、慌てて付け足した。
「……ただ、匂いの理由が分かったら、勝手に消したくなくなっただけです」
颯人の眉がわずかに上がった。驚いた顔のまま、口を開いて、閉じる。
優はその隙に、スカーフをもう一度、丁寧にたたみ直した。四角に揃える。角を折る。空気を抜くように手のひらで撫でる。仕込みのときと同じ指の動きだった。
「私……明日の朝、少しだけ使っていいですか」
「何を?」
「ラベンダーの匂い。食べ物のほうで。……一滴だけ」
優は言ったあと、急に恥ずかしくなり、耳の熱さをごまかすように視線を横へ逃がした。断られたら、どうする。自分は勝手なことを言っていないか。
颯人は、しばらく黙っていた。優は、その沈黙が怖くなかった。昨夜、隣にいた人だ。今日も、逃げない。
「一滴なら」
颯人はそう言って、箱を抱えたまま頷いた。
「減るのが怖いって言ったのに、変だな」
「変じゃないです。減った分、匂いが誰かに届きます」
優は言い切ってから、ようやく息を吐いた。胸の内側が、静かに温かい。
翌朝、まだ暗い五時半。優はスイートのキッチンで小さなボウルに砂糖を落とし、湯気の立つ鍋の前に立った。
瓶の蓋を開ける。ラベンダーは空気の中で薄くひらく。優は自分の指先に一滴だけ落とし、シロップの表面に触れさせた。香りが溶けた瞬間、昨日のクローゼットの静けさが、ふっと思い出になる。
颯人は湯気の上がる鍋を一度見てから、何も言わずに流しへ向かった。昨夜、優が泣いた台の上に、今朝はボウルが並んでいる。その横に立ち、颯人は洗剤の量を迷い、指先で少しだけ出しては引っ込めた。
優はその様子を見て、笑いそうになって堪えた。代わりに、木べらで鍋底をゆっくりなでる。焦げつかせない速度。自分の呼吸と同じ速さ。
颯人がボウルを持ち上げたとき、優は小さく首を振った。
「今は、置いておいてください。あとで……一緒に洗います」
颯人は一瞬きょとんとして、それから、ゆっくり頷いた。置く音がやけに静かだった。
仕上げに、小さなクッキーを一枚。焼き色は淡い。割れ目はない。
優は皿に置き、テーブルへ運んだ。
颯人はシャツの袖をまくり、コーヒーを淹れていた。昨夜の話が嘘みたいに、いつもの手順でカップを並べる。
優は皿を差し出し、言った。
「一滴だけです。……届くか、試してみたくて」
颯人はクッキーを割らずに口へ運び、しばらく噛んでから、目を細めた。
「……ラベンダーだ」
言い切ったあと、颯人はカップを持ち上げ、優のほうへ少しだけ傾けた。
「届いた。ありがとう」
優はその一言に、胸の奥がきゅっと鳴った。今度こそ、逃げずに返す。
「こちらこそ。昨日、話してくれて」
優は、今度は笑っていいと思えた。
「はい。母のラベンダーです」