ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第12話 ラベンダーミストムーンストーン

 木曜の朝五時十分。ムーンストーン洋菓子店の裏口を開けると、冷えた空気が指先にまとわりついた。優は鍵を回す音を小さくして、いつものように照明を半分だけ点ける。明るさを上げすぎると、眠気が怒るみたいに残るのを知っている。

 ボウルを二つ並べ、仕込み表に丸を付ける。卵白の温度、砂糖の量、オーブンの癖。毎日同じはずなのに、毎日ちがう。
 その「ちがう」を、優は嫌いにならないようにしている。嫌いになった瞬間、手が雑になるからだ。

 今日は、ちがう理由が一つ増えていた。
 スイートのキッチンで颯人が見せた、あの薄紫の小袋。香りを言葉にしたあとの、静かな息。
 優は昨夜、帰宅してからも鼻の奥に残ったラベンダーを思い出して、眠りが浅かった。

 「……焼くか」
 声に出した瞬間、優は自分の大胆さに肩をすくめた。
 焼き菓子は逃げない。逃げないから、向き合うしかない。

 棚から小さな瓶を取り出す。食用のラベンダー。七夕が昨日、スパの受付で「これ、飲みもの用だけど、量を間違えなければお菓子にもいけるよ」と置いていった。紙に書かれた注意は三行だけで、数字が怖いほど小さい。
 ちほなら「危ない橋、渡る?」と笑うところだ。

 優は計量スプーンを握り、いちばん小さいほうを選んだ。指先で粉をすくい、ひと呼吸。空中に落とすと、紫が霧みたいに散った。
 マカロンの生地へ落ちる前に、ふわりと香りが立つ。花畑じゃない。もっと控えめで、布の引き出しみたいな落ち着きがある。

 メレンゲを立てる音が、店の静けさを起こした。泡が細かくなって、つやが出て、角が少しだけお辞儀をする。
 優は絞り袋を持つ手を、いつもより慎重にした。迷いが混ざると、丸が歪む。

 天板を二枚、並べる。間隔は同じ。大きさも同じ。焼き色は、少しだけ薄め。
 「控えめでいい」
 自分に言い聞かせるみたいに、優は呟いた。

 焼き上がりを待つ間、ちほが裏口から飛び込んできた。靴ひもを結び直す暇もなく、紙袋を抱えたまま顔を出す。
 「おはよ。……なにその匂い。花屋?」
 「花屋じゃない。……ラベンダー」
 「急に大人。誰に食べさせるの」
 ちほの目が、優の顔の奥まで覗く。
 優は絞り袋を洗うふりをして、視線を流した。
 「……自分が納得したいだけ」
 「はいはい。納得したい人、だいたい誰かに渡すんだよね」
 ちほはそう言って、販売用の箱を積みながら、急に声の調子を変えた。
 「焼き色、気をつけて。香り強いの、食べる側びびるから」
 欠点みたいに言うくせに、指摘はいつも正しい。優は頷いた。
 「分かった」

 ――夜。

 木曜の二十一時。ミッドナイト・ムーンストーンのスパの前は、白いタオルの匂いが漂っていた。七夕が受付台に小分けのナッツを並べ、同僚へ配っている。
 「はい、これ。噛むやつ。夜勤の人ほど、噛むやつ」
 「また始まったよ、七夕。水筒とナッツの布教」
 若い男性スタッフが笑う。七夕は笑い返さない。タオルを畳む手を止めずに、淡々と答えた。
 「元気でいてほしいから」
 声は小さいのに、背中はまっすぐだった。

 その言葉を、颯人は少し離れた廊下で聞いた。
 裕喬と一緒に歩いてきた颯人は、足を止める。裕喬が一瞬だけ眉を上げたが、何も言わない。颯人は、七夕の手元へ視線を落とした。
 小袋のナッツが、同僚のポケットへ次々に吸い込まれていく。笑われても、渡す。
 颯人は喉の奥で、小さく息を飲んだ。

 「……七夕さん」
 颯人が名前を呼ぶと、七夕はすぐに顔を上げた。反射みたいに背筋が伸びる。
 「支配人代理、どうしたの」
 「夜勤の清掃に、温かい飲みものを。スパから余りが出るなら、分けてもらえますか」
 七夕は一度だけ頷いた。
 「出る。出さないと腐る。持ってって」
 言い切ると、彼女はすぐに紙に書き始めた。誰に、何時に、どの箱で。段取りの文字が迷いなく並ぶ。
 颯人は礼を言おうとして、言葉を飲み込むのをやめた。
 「ありがとう。助かります」
 七夕は「うん」とだけ返し、またナッツを配り始めた。

 スイートの廊下へ戻ると、颯人は一つ深呼吸をした。裕喬が横で、いつも通りの低い声で言う。
 「今、言えましたね」
 「……言わないと、届かない」
 颯人は自分の言葉に、少し驚いたみたいに瞬きをした。

 ドアを開けると、キッチンの灯りが点いていた。優が小さな箱を両手で持って、立っている。中身が揺れないように、胸の前で支えている。
 「お帰りなさい。……今日、焼きました」
 優は言いながら、箱を差し出す位置を迷って、結局テーブルの中央にそっと置いた。置き方が、いつもより慎重だ。
 「香り、強かったら、すみません。食べる前に言います。……ラベンダーです」

 颯人は箱を見下ろし、ゆっくり蓋を開けた。
 丸いマカロンが四つ。淡い紫。表面はつやが控えめで、足がきれいに揃っている。香りは確かに立つが、押しつけがましくない。
 「……綺麗だ」
 「綺麗、じゃなくて。味が……」
 優が言い直そうとして、口を閉じる。
 颯人は一つ手に取り、半分に割った。中のクリームは薄い色で、月明かりみたいに柔らかい。
 ひと口。噛んだ瞬間に、砂糖の甘さより先に、静かな花の息が来る。すぐに消えて、後にバターの丸さが残った。

 颯人は飲み込んでから、目を上げた。
 「……母の部屋の匂いに近い」
 優の胸が、きゅっと縮む。嬉しいのか怖いのか、どちらかに決められない。
 「母上を……思い出させるの、嫌じゃないですか」
 颯人は首を横に振った。
 「嫌じゃない。……忘れたふりをするほうが、たぶん苦しい」
 言ってから、颯人は少しだけ口角を上げた。
 「名前、付けたんですか」
 優は一瞬だけ目を泳がせ、それから、用意していた言葉を出した。
 「ラベンダーミストムーンストーン」
 舌がもつれそうな長さなのに、言い切れた。
 颯人が、小さく笑った。
 「長い。でも、覚えます」
 「覚えなくていいです。……私が、勝手に言ってるだけなので」
 「覚えたいです」
 颯人ははっきり言った。優は返事を探して、指先を握りしめる。

 沈黙の隙間に、洗い物の水音が遠くで鳴る気がした。実際は鳴っていない。鳴っていないのに、ふたりの間には台所の気配がある。
 颯人は箱の蓋を閉め、丁寧に言った。
 「ありがとう。……作ってくれて」
 優は、言葉を受け取ってから、自分の口で返すまでに一拍置いた。
 「こちらこそ。……話してくれて」
 昨夜の続きの言葉が、今日ならちゃんと立つ。

 颯人はマカロンの箱を持ち上げた。
 「明日、清掃の皆さんに配っていいですか」
 優は驚いて、目を見開く。
 「え。……それ、少ないです」
 「少ないから、いい。『ありがとう』を、手渡しで言える数です」
 颯人はそう言って、箱を元の場所に戻した。

 優は胸の奥が熱くなるのを、笑いで隠さなかった。
 「……じゃあ、明日の朝、もう一回焼きます。量、増やします」
 「走らないで」
 颯人が言う。優は一瞬だけむっとした顔をしてから、すぐに息を吐いた。
 「走りません。……歩いて焼きます」

 ふたりの間に、小さな笑いが落ちた。大きくはないけれど、床に当たって転がる音がする。
 優はマカロンの箱に目を落とし、心の中でそっと決めた。
 この香りを、誰かの思い出にしない。今日の「今」にする。

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