ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第13話 支援という名の口出し

 月曜の昼一時。ムーンストーン洋菓子店のガラス戸は、外の陽を少しだけ白く曲げて入れていた。店先のショーケースには、朝から並べたマカロンがもう半分しか残っていない。
 優は小さなトングで最後の一段を整え、値札の角を指でそろえた。角をそろえると、心の中の揺れまで少し平らになる気がする。

 「優、ラベンダーの、残り三個。どうする」
 カウンターの内側から、ちほの声が飛んできた。言い終わる前に、ちほはもう箱を組み立てている。指が速い。口も速い。
 「予約の分。……あと、ホテルに一つ」
 「ホテルに一つ、ね。例の人に?」
 「うん。……例の人って言い方やめよう」
 優が言うと、ちほは眉だけ動かして笑った。

 ガラス戸の鈴が鳴った。
 振り向くより先に、店内の空気が少しだけ引き締まる。背広の布が擦れる音は、ここでは目立つ。
 颯人が立っていた。手には、紙袋ではなく書類が挟まった薄いファイル。今日は、甘い手土産の匂いがしない。

 「こんにちは。……今、少しだけ時間、いいですか」
 颯人は入口のマットの端で靴をそろえ、声を落とした。お客が一人、ケーキを選んでいる。優は小さく頷いて、ちほへ視線を送った。
 ちほは「はいはい」とだけ口を動かし、何も聞いていないふりでレジの端を磨き始めた。逆に目立つ。

 颯人はカウンターの前に来ると、いきなりファイルを開いた。
 「設備の更新の件です。オーブンとミキサー、交換したい。見積もりは——」
 紙が一枚、二枚と滑り出す。数字の列が、ショーケースの中の色を薄く見せた。

 優は胸のあたりが一瞬だけひやりとして、すぐに指先に熱が戻るのを感じた。
 ありがたい。ありがたいはずだ。
 けれど、言葉の順番を間違えると、ありがたいが鎖になる。

 優は息を一つ整えてから、紙を指で押し戻した。
 「颯人さん。助けてくれるの、すごく……助かります」
 自分で言って、同じ言葉が二回出たことに気づき、口の端が少しだけ歪んだ。ちほが「おお」と小さく声を漏らす。

 「でも」
 優は、カウンターの木目に視線を置いた。見つめる先を決めないと、言葉が揺れる。
 「私の店の決める権利は、私に残したいです。買う機械も、いつ替えるかも。……ここは、私が毎朝五時に開ける場所なので」

 颯人は、返す言葉を探すみたいに唇を閉じた。怒った顔ではない。驚いた顔でもない。むしろ、ちゃんと考える前の顔だった。
 次の瞬間、颯人はファイルを閉じた。
 「……はい」
 短い返事だったけれど、切るような短さではなかった。

 「俺が、先に決めて、持ってきました」
 颯人は自分の手のひらを見た。書類の端が少し折れている。
 「優さんが嫌だと言うなら、やり直します」

 優はそこでやっと顔を上げた。
 「嫌じゃないです。……怖いんです。助けてもらうと、いつの間にか『ありがとうございます』の回数が増えて、最後に何を言っていいか分からなくなるのが」
 言い終わって、優は自分の素直さに驚いた。口が先に動いたのに、嘘が混じっていない。

 ちほが、磨いていたレジの端を指で叩いた。
 「ね。そういうとこ、わりと大事。あとさ、機械の話するなら、現場の人間に聞きなよ」
 ちほは颯人を見て、遠慮なく続ける。
 「焼きムラ、どこが出るか。掃除、どれだけ面倒か。音、どれだけうるさいか。……そういうの、紙にない」

 颯人はちほの言葉を遮らなかった。目だけで「ありがとう」を返してから、優へ向き直る。
 「明日、もう一度。……優さんと、ちほさんと、厨房の人たちの意見も集めてから話します」
 「厨房の人……」
 優が言うと、颯人は頷いた。
 「ホテル側の厨房も、優さんのマカロンに合わせて動いている。そこも聞きます。俺だけが『支える』顔をして、勝手に決めるのは、違う」

 「……支える顔」
 優が小さく復唱すると、ちほが吹き出した。
 「顔で支えるな。腕で支えろ」
 「腕……」
 颯人が真面目に考えそうになり、優は慌てて首を振った。
 「そういう意味じゃないです」

 店内の空気が、ふっと軽くなる。
 その軽さに乗って、優はもう一言だけ足した。
 「助けは、受け取ります。だから……置き場所は、私に選ばせてください」

 颯人は、カウンターの上にあった小さな紙袋を見つけた。ラベンダーミストムーンストーンの箱だ。リボンが薄紫で、結び目が少しだけ曲がっている。
 「これ、ホテルに?」
 「はい。……一つだけ」
 「一つだけ、俺に?」
 「……そうなります」
 優が言うと、颯人は口元だけ笑った。
 「じゃあ、受け取ります。置き場所は……俺の机の上にします」

 颯人が帰ったあと、ちほは腕を組んで優を見た。
 「言えたじゃん」
 「……言えちゃった」
 「言わないと、向こうは紙で固める。紙、好きそうだし」
 「ちほ、失礼だよ」
 「失礼は、現場のスパイス」

 優は笑いながら、胸の奥をそっと撫でた。怖さは消えていない。けれど、怖さに名前を付けたら、歩ける。

 翌日の火曜、朝七時二十五分。ミッドナイト・ムーンストーンの地下厨房は、まだ客の声が届かないのに、鍋の蓋とフライパンの音だけは元気に走っていた。
 優は白いコックコートではなく、いつものエプロンのまま通用口から入り、髪をまとめ直してから帽子を借りる。混ざるとまずいものは、立場がどうであっても同じだ。

 「ここです。優さんの箱、今朝も二段で運びました」
 裕喬が淡々と案内しながら、運搬用カートの角を指で撫でた。指先に粉糖が残ったのか、彼はポケットからハンカチを出して一度だけ拭く。

 「優さん、こっち。温度計、見て」
 厨房の主任が呼び、オーブンの前を指差した。扉を開けると、熱い空気がふわっと顔に来る。優は一歩引き、目だけで中を追った。
 「右の奥、いつも濃くなるんです」
 主任が言う。優は頷いた。自分の店でも、同じ癖のある場所がある。

 颯人はメモ帳を開いたまま、オーブンの前にしゃがみ込んだ。高い背広が床に触れそうで、裕喬が無言でタオルを差し出す。颯人は受け取り、膝の下に敷いた。
 「焼きムラは、ここ。掃除は?」
 「ファンの裏、油が取れません」
 清掃の主任が言うと、厨房の主任が即座に頷く。頷きが重なると、言葉が証拠になる。

 そこに七夕が現れた。スパの制服の上に薄手のパーカー。手には大きな水筒と、小分けのナッツ。
 「飲む? 朝は急に倒れる人が出るから」
 七夕は誰の許可も取らずに紙コップを置いた。優は受け取り、ぬるい麦茶を一口飲んだ。
 「ありがとうございます」
 「言わなくていいよ。飲めばいい」
 七夕はそう言って、今度は颯人の前にもコップを置く。颯人は一拍遅れて口を付け、むせそうになって目を丸くした。
 「……熱くない」
 「それが売り。急いでる人ほど、熱いの持って走るから」
 七夕はさらっと言い、ナッツを裕喬の手にも押し付けた。

 颯人は咳を一つして、笑うのを我慢したみたいな顔でメモを続けた。
 「優さんの店のオーブンも、癖がありますよね」
 「あります。扉の閉まりが、たまに甘いです」
 「……それ、危ない。先に直します」
 「そこまで決めないでください」
 優が言うと、颯人は手を止めて、顔を上げた。
 「はい。決めません。……直したいと思った理由だけ、言います。危ないのが嫌です」
 優は言葉を飲み込み、代わりに頷いた。理由を置かれてからなら、選べる。

 ちほは来なかった。店番があると言って断った、と颯人が言った。けれど、現場の声は十分に集まった。
 厨房の主任は「掃除が楽で、温度が安定するやつ」。清掃の主任は「分解できるやつ」。裕喬は「納期が読めるやつ」。七夕は「腰を痛めない高さ」。
 優は「小回りが利いて、失敗したときに取り返せるやつ」を口にした。みんな違う。違うから、紙は一枚では足りない。

 「二つ、候補を出して、店で一緒に触りましょう」
 優が言うと、颯人は即座に頷いた。
 「はい。俺が選ぶんじゃなくて、優さんが選べる形にします」

 その夜。スイートの小さなテーブルに、颯人がメモを置いた。
 「今日の分。聞いたこと、まとめました」
 優は紙を覗き込み、思わず目を丸くした。聞いた相手の名前が、きちんと並んでいる。厨房の主任、清掃の主任、スパの七夕、現場統括の裕喬、そして——ちほ。
 「ちほ、入ってる」
 「入れました。……口が速いから」
 颯人が言うと、優は吹き出した。
 「口が速いって、本人に言わないでください」
 「明日は、本人にも言います」

 優は笑って、でも目だけは逸らさなかった。
 「ありがとう、って言います。……でも、回数は数えません」
 颯人は一拍置き、頷いた。
 「俺も。数えません。代わりに、聞きます。何が必要か」

 台所の蛇口から、水が一定の音で落ちる。泡の匂いに、ラベンダーが少しだけ混じった気がした。

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