ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第14話 身分の差の言葉
木曜の夕方、ミッドナイト・ムーンストーンのスイートの窓は、湾岸の光を薄く受けていた。優はソファの端に座り、膝の上の紙袋をそっと開く。中には、七夕が「これ、足が死なないやつ」と言って置いていったストッキングと、ちほが「色、地味にしとけ」と突き返すみたいに選んだ口紅。
鏡の前で試してみると、口紅は地味というより、飲み込んだイチゴの色だった。優はティッシュで軽く押さえ、結局もう一度塗る。塗り直す手つきが、マカロンのガナッシュを絞るときの手つきに似ていて、自分で笑いそうになった。
テーブルの上には、颯人が広げた薄い封筒がある。招かれたのは「颯人の叔父の家」。住所は都内なのに、番地が少なくて、名前ばかりが長い。優は封筒の角を指でなぞり、紙の硬さを確かめた。
「嫌なら、行かなくていいです」
颯人がそう言ったのは、三回目だった。優はそのたびに、返事を同じにする。
「行きます。今日の分は、今日のうちに」
仕込みと同じで、後に回すほど手が震える気がした。
玄関で靴を履くと、七夕の「死なないやつ」でも、足の甲が少しだけ痛んだ。優はつま先で床を一度叩き、痛みの場所を覚える。覚えれば、歩き方を変えられる。
颯人はネクタイの結び目を指で整え、優の靴を見てから、無言で自分の歩幅を小さくした。優はそれに気づき、何も言わずに一歩だけ近づく。
車は、ホテルの地下から静かに出た。外の空気が冷え始めていて、窓に手を当てるとひやりとする。
「今日、店は」
颯人が聞く。
「ちほが閉めます。……『帰りにアイス買ってこい』って言われました」
「命令ですね」
「命令です」
優が言うと、颯人の口元がわずかに上がった。その上がり方が、すぐ元に戻るのも見えた。今日は笑い続ける日じゃない、と身体が知っている。
十九時ちょうど。車は高い塀の前で止まり、門が内側へ滑るように開いた。砂利は敷かれていない。タイヤの音が、やけに素直に響く。
玄関に立っていたのは、背の高い男性と、淡い色の着物を着た女性だった。名刺をもらう前に、優は「叔父」と「叔母」を心の中で置き、言葉の順番を決めた。
「本日は、お時間をいただき……」
優が頭を下げようとした瞬間、叔母の視線が先に優の手元へ落ちた。指先。爪。指輪の有無。そこから、靴。鞄。最後に、顔。
叔母は微笑んだ。唇だけの微笑みだった。
「まぁ。お店の方って、こういうのに慣れていないのね」
優は顔を上げ、笑おうとして、口角が途中で止まった。慣れていないのは事実だ。事実だから、笑って受け流せると思ったのに、喉の奥が先に固くなった。
応接間は、天井が高くて、音が上へ逃げていく。テーブルの上には、湯気の立つ紅茶と、小さな菓子が並んでいた。優は菓子を見て、反射で「焼き色、少し濃い」と思ってしまい、すぐに視線を戻した。ここで職業の目を出すのは、刺身に砂糖をかけるみたいに場違いだ。
叔父は紅茶を一口飲み、颯人へ言う。
「支配人の席の話は、ちゃんと進んでいるのか」
颯人は背筋を伸ばしたまま、膝の上で指先を組んだ。
「進んでいます」
「で、その隣の方は」
叔父が顎で優を示す。示し方が、家具の置き場所を指すみたいだった。
優は背中をまっすぐにして、口を開いた。
「ムーンストーン洋菓子店の、優と申します」
言い終わって、気づく。ここで必要なのは店の名前じゃない。家の名前だ。姓だ。どこの誰かだ。
優は息を一つ飲み込み、続けようとした。
その前に、叔母が言った。
「あなた、飾りだから。颯人の隣に立つのは、写真を撮るときだけでいいのよ」
優の耳に、言葉が一度で入らなかった。飾り。飾りは、棚に置く。掃除のときに動かす。割れたら困るけれど、割れても代わりはある。
優は笑おうとした。笑って「そうですね」と言えば、場は丸くなる。丸くなれば、帰れる。そう思ったのに、口の中が乾いて、舌が上顎に張りついた。
「……飾り、ですか」
声が出た。自分でも驚くほど低かった。
叔父が、鼻で短く息を吐いた。
「店の方が、こういう席で口を出すと困る。君は、君の生活圏で働けばいい。颯人の家のことは、こちらが決める」
優は膝の上で指を握った。指先が白くなる。痛みが出るくらい握って、やっと泣かないでいられる気がした。
「叔父さん」
颯人の声が、机の上の紅茶の表面を揺らした。怒鳴り声ではない。けれど、さっきまでの丁寧な音が消えている。
「優さんは、飾りじゃないです」
叔母が笑う。
「そういう言い方が好きなのね。でも、世の中は——」
「世の中は、知っています」
颯人は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、天井の高さに負けずに残った。
「知っていて、今日来ました。だから、帰ります」
優は立ち上がるタイミングを見失っていた。足が、七夕の「死なないやつ」なのに、床に縫い付けられたみたいだった。
颯人が横に来て、手を差し出す。掌は熱くない。汗もない。けれど、ためらいがない。
優はその手を取った。指先が触れた瞬間、握っていた自分の指がほどける。痛みが抜ける代わりに、心臓が跳ねた。
玄関までの廊下が長い。途中で止められるかもしれない、と優は思った。誰かが「待ちなさい」と言えば、足がまた縫い付けられる。
けれど背後から聞こえたのは、叔母の小さな溜息だけだった。溜息は、追いかけてこない。
車に乗り込むと、優はシートベルトを締めた。金具が「カチ」と鳴る。鳴った音が、自分の居場所の鍵みたいに思えて、喉が少しだけ熱くなった。
颯人はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かさなかった。フロントガラスの向こうに、門が見える。閉じるまで見届けるみたいに。
門が静かに閉まった瞬間、颯人はエンジンをかけた。
「すみません」
優が言った。謝りたいのか、礼を言いたいのか、自分でも分からない言葉だった。
颯人は前を見たまま、短く息を吐く。
「謝らないでください」
「でも……」
優は言葉を探して、窓の外へ逃げた。街灯が流れていく。光は同じ距離で通り過ぎるのに、さっきの部屋だけが遠い。
颯人が、ハンドルから右手を少しだけ離した。すぐ戻せるくらいの距離で、でも確かに優のほうへ寄る。
「守るって言い方、俺は下手です」
颯人はそこで一度、言葉を切った。アクセルを踏む足が、わずかに揺れる。
「だから……隣に立ちます。優さんが立つ場所を、勝手に決めないで。俺も、同じ場所に立つ」
優は前を見る。視線を前に固定したまま、頷いた。頷きは小さいのに、首の後ろが熱くなる。
指先がシートの端を探し、布の感触を確かめる。そこに手を置いていれば、今の自分が消えない気がした。
「……帰りに、アイス」
優が言うと、声が少しだけ元に戻った。
颯人は一拍遅れて、短く笑った。
「命令、でしたね」
「命令です」
「じゃあ、買いましょう。二つ。ちほさんの分も」
「ちほ、三つ食べます」
「じゃあ、三つ」
「……ありがとうございます」
優が言い切ると、颯人は頷いた。
「こちらこそ」
車は湾岸の道路へ戻り、ホテルの灯りがまた見えてきた。優の胸の奥に残っていた乾いた砂が、少しずつ水を含んでいく。溶けるのではなく、固まり直して、次の一歩を作るみたいに。
鏡の前で試してみると、口紅は地味というより、飲み込んだイチゴの色だった。優はティッシュで軽く押さえ、結局もう一度塗る。塗り直す手つきが、マカロンのガナッシュを絞るときの手つきに似ていて、自分で笑いそうになった。
テーブルの上には、颯人が広げた薄い封筒がある。招かれたのは「颯人の叔父の家」。住所は都内なのに、番地が少なくて、名前ばかりが長い。優は封筒の角を指でなぞり、紙の硬さを確かめた。
「嫌なら、行かなくていいです」
颯人がそう言ったのは、三回目だった。優はそのたびに、返事を同じにする。
「行きます。今日の分は、今日のうちに」
仕込みと同じで、後に回すほど手が震える気がした。
玄関で靴を履くと、七夕の「死なないやつ」でも、足の甲が少しだけ痛んだ。優はつま先で床を一度叩き、痛みの場所を覚える。覚えれば、歩き方を変えられる。
颯人はネクタイの結び目を指で整え、優の靴を見てから、無言で自分の歩幅を小さくした。優はそれに気づき、何も言わずに一歩だけ近づく。
車は、ホテルの地下から静かに出た。外の空気が冷え始めていて、窓に手を当てるとひやりとする。
「今日、店は」
颯人が聞く。
「ちほが閉めます。……『帰りにアイス買ってこい』って言われました」
「命令ですね」
「命令です」
優が言うと、颯人の口元がわずかに上がった。その上がり方が、すぐ元に戻るのも見えた。今日は笑い続ける日じゃない、と身体が知っている。
十九時ちょうど。車は高い塀の前で止まり、門が内側へ滑るように開いた。砂利は敷かれていない。タイヤの音が、やけに素直に響く。
玄関に立っていたのは、背の高い男性と、淡い色の着物を着た女性だった。名刺をもらう前に、優は「叔父」と「叔母」を心の中で置き、言葉の順番を決めた。
「本日は、お時間をいただき……」
優が頭を下げようとした瞬間、叔母の視線が先に優の手元へ落ちた。指先。爪。指輪の有無。そこから、靴。鞄。最後に、顔。
叔母は微笑んだ。唇だけの微笑みだった。
「まぁ。お店の方って、こういうのに慣れていないのね」
優は顔を上げ、笑おうとして、口角が途中で止まった。慣れていないのは事実だ。事実だから、笑って受け流せると思ったのに、喉の奥が先に固くなった。
応接間は、天井が高くて、音が上へ逃げていく。テーブルの上には、湯気の立つ紅茶と、小さな菓子が並んでいた。優は菓子を見て、反射で「焼き色、少し濃い」と思ってしまい、すぐに視線を戻した。ここで職業の目を出すのは、刺身に砂糖をかけるみたいに場違いだ。
叔父は紅茶を一口飲み、颯人へ言う。
「支配人の席の話は、ちゃんと進んでいるのか」
颯人は背筋を伸ばしたまま、膝の上で指先を組んだ。
「進んでいます」
「で、その隣の方は」
叔父が顎で優を示す。示し方が、家具の置き場所を指すみたいだった。
優は背中をまっすぐにして、口を開いた。
「ムーンストーン洋菓子店の、優と申します」
言い終わって、気づく。ここで必要なのは店の名前じゃない。家の名前だ。姓だ。どこの誰かだ。
優は息を一つ飲み込み、続けようとした。
その前に、叔母が言った。
「あなた、飾りだから。颯人の隣に立つのは、写真を撮るときだけでいいのよ」
優の耳に、言葉が一度で入らなかった。飾り。飾りは、棚に置く。掃除のときに動かす。割れたら困るけれど、割れても代わりはある。
優は笑おうとした。笑って「そうですね」と言えば、場は丸くなる。丸くなれば、帰れる。そう思ったのに、口の中が乾いて、舌が上顎に張りついた。
「……飾り、ですか」
声が出た。自分でも驚くほど低かった。
叔父が、鼻で短く息を吐いた。
「店の方が、こういう席で口を出すと困る。君は、君の生活圏で働けばいい。颯人の家のことは、こちらが決める」
優は膝の上で指を握った。指先が白くなる。痛みが出るくらい握って、やっと泣かないでいられる気がした。
「叔父さん」
颯人の声が、机の上の紅茶の表面を揺らした。怒鳴り声ではない。けれど、さっきまでの丁寧な音が消えている。
「優さんは、飾りじゃないです」
叔母が笑う。
「そういう言い方が好きなのね。でも、世の中は——」
「世の中は、知っています」
颯人は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、天井の高さに負けずに残った。
「知っていて、今日来ました。だから、帰ります」
優は立ち上がるタイミングを見失っていた。足が、七夕の「死なないやつ」なのに、床に縫い付けられたみたいだった。
颯人が横に来て、手を差し出す。掌は熱くない。汗もない。けれど、ためらいがない。
優はその手を取った。指先が触れた瞬間、握っていた自分の指がほどける。痛みが抜ける代わりに、心臓が跳ねた。
玄関までの廊下が長い。途中で止められるかもしれない、と優は思った。誰かが「待ちなさい」と言えば、足がまた縫い付けられる。
けれど背後から聞こえたのは、叔母の小さな溜息だけだった。溜息は、追いかけてこない。
車に乗り込むと、優はシートベルトを締めた。金具が「カチ」と鳴る。鳴った音が、自分の居場所の鍵みたいに思えて、喉が少しだけ熱くなった。
颯人はハンドルに手を置いたまま、しばらく動かさなかった。フロントガラスの向こうに、門が見える。閉じるまで見届けるみたいに。
門が静かに閉まった瞬間、颯人はエンジンをかけた。
「すみません」
優が言った。謝りたいのか、礼を言いたいのか、自分でも分からない言葉だった。
颯人は前を見たまま、短く息を吐く。
「謝らないでください」
「でも……」
優は言葉を探して、窓の外へ逃げた。街灯が流れていく。光は同じ距離で通り過ぎるのに、さっきの部屋だけが遠い。
颯人が、ハンドルから右手を少しだけ離した。すぐ戻せるくらいの距離で、でも確かに優のほうへ寄る。
「守るって言い方、俺は下手です」
颯人はそこで一度、言葉を切った。アクセルを踏む足が、わずかに揺れる。
「だから……隣に立ちます。優さんが立つ場所を、勝手に決めないで。俺も、同じ場所に立つ」
優は前を見る。視線を前に固定したまま、頷いた。頷きは小さいのに、首の後ろが熱くなる。
指先がシートの端を探し、布の感触を確かめる。そこに手を置いていれば、今の自分が消えない気がした。
「……帰りに、アイス」
優が言うと、声が少しだけ元に戻った。
颯人は一拍遅れて、短く笑った。
「命令、でしたね」
「命令です」
「じゃあ、買いましょう。二つ。ちほさんの分も」
「ちほ、三つ食べます」
「じゃあ、三つ」
「……ありがとうございます」
優が言い切ると、颯人は頷いた。
「こちらこそ」
車は湾岸の道路へ戻り、ホテルの灯りがまた見えてきた。優の胸の奥に残っていた乾いた砂が、少しずつ水を含んでいく。溶けるのではなく、固まり直して、次の一歩を作るみたいに。