ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第15話 形だけをやめる夜
土曜の午前零時十分。ミッドナイト・ムーンストーンのスイートのリビングは、カーテンの隙間から街の光が薄く滲み、床の上に四角い湖みたいな影を落としていた。
帰ってきてから、ふたりとも、言葉を数えている。靴をそろえる音、ネクタイを緩める音、洗面所の蛇口が一度だけ咳をする音。全部が、今夜の続きに触れないように遠回りしていた。
優は小さな紙袋をテーブルの端へ置いた。ちほに「途中で崩れたら泣くぞ」と言われて、両手で抱えて帰ってきたやつだ。
中身は、試作のマカロン。ラベンダーの香りをほんの少しだけ、湿った空気に混ぜた。名前は長い。ちほに笑われたのも、そのままだ。
「……食べますか」
優が言うと、颯人はソファの端で背筋を伸ばしたまま頷いた。口を開く前に、喉を一度鳴らす。昔からそういう手順があるみたいに。
優は箱を開け、紙をめくって、ひとつだけ取り出した。指先に、粉糖の粒がすこし付く。舐めると甘さが先に立って、後から香りが追いかけてくる。
颯人も一つ取る。噛む前に、目で確かめるように表面のひびを見て、薄い殻が割れる音を聞いた。
「……この香り、強くしないんですね」
「強くすると、食べた人の一日が、これで終わっちゃう気がして」
優は自分の言い方に、少しだけ笑った。厨房で言ったら、ちほが「詩人か」と殴ってくるやつだ。
颯人は笑わなかった。代わりに、マカロンを半分に割って、中のクリームを見た。断面がきれいに揃っているのを確認してから、もう半分を口に入れる。
優はその様子を見て、胸の奥が温度を上げるのを感じた。昨日までなら、そこを誤魔化せた。けれど今日は、誤魔化し方がわからない。
テーブルの上には、薄い封筒が置かれている。三か月の約束が書かれた紙。優の名前と、颯人の名前が、同じ欄に並んでいる。
優は紙袋の取っ手を指で捻った。捻り過ぎて、紙が鳴いた。
「期限が終わったら……」
言葉が、勝手に落ちた。落ちたのに、拾えない。
「私は、戻ります」
颯人の手が止まった。口の中の甘さも、そこで止まったみたいだった。
優は急いで続けようとした。言い訳を足すと、もっと薄くなる気がしたのに、止められない。
「最初に、そう約束しました。困らないように、元の暮らしに戻すって。だから……私は——」
颯人の視線が上がった。まっすぐで、逃げ場がない。
沈黙が、リビングの隅まで満ちていく。エアコンの微かな風の音が、逆に大きく聞こえた。
「戻してたまるか」
颯人が、短く言った。
優は息を飲んだ。怒鳴り声ではない。けれど、言葉の端が、今までより硬い。
テーブルの上のティーカップが、優の指先に当たって小さく揺れた。熱い。なのに、指が離れない。
「……颯人さん」
呼び方を間違えたみたいに、舌がもつれた。
「約束、です。私、約束で動いてきたんです。店も、材料も、従業員の給料も。全部、守るために」
颯人は息を吐き、ソファから立ち上がった。歩幅は大きくない。けれど、床に置く足の位置が迷わない。
優の前に来ると、まず手を伸ばさずに、テーブルの端に置いてあった封筒を取った。勝手に開けない。先に、確認するように優を見る。
優が頷くと、颯人は封を切り、紙を一枚ずつ丁寧に広げた。
「最初に言った約束は、あなたを閉じ込めるためじゃない」
颯人は紙の文面を見ながら言った。読むことに集中しているようで、声だけは優に向いている。
「あなたが嫌だと言ったら、終わりにする。そこだけは、今も変えません」
優は喉の奥で小さく笑いそうになって、やめた。笑ったら、泣きそうだった。
颯人は続けた。
「でも、あの家で言われた言葉を、あなたの中に残したまま、期限が来たからはい終わり、ってできない。……できないんです」
言葉が少しだけ乱れた。乱れたところだけ、余計に本当っぽい。
優は視線を落とした。封筒の角が、指に当たって痛い。
「私、ああいう席で、笑って受け流すの得意だと思ってました」
昨日の自分が、上手く笑えなかったのを思い出す。喉が固くなって、目の奥が熱くなって、手のひらだけが冷たくなった。
「でも、失敗しました。だから、戻るって言ったんです。ここに居たら、また失敗する気がして」
颯人は紙を揃え、ゆっくりと封筒に戻した。入れる順番まで、揃える。指先が、紙の端をそっと撫でた。
「失敗しても、いいです」
颯人は言った。
「失敗したら、次にどうするか、ふたりで決めればいい。……形のために、あなたを連れて行ったのは俺です。俺が、向き合う」
優は、思わず頬を押さえた。笑ってしまった。いまの言い方、少しだけ強引だ。
「急に、俺って言いましたね」
颯人の眉が動いた。言い間違えたときの顔だ。すぐに直そうとして、直せない。
「……すみません」
「謝るところじゃないです」
優は笑いながら、鼻の奥を押さえた。涙が出る前の合図を、身体が勝手に出す。
颯人は封筒を持ったまま、リビングのサイドボードへ歩いた。引き出しを開け、中身を一度見て、空いている場所を探す。
中には、ホテルのメモ帳と、細いペンと、なぜか未開封の爪楊枝が整列していた。優は見た瞬間、ちほの声が頭に浮かんだ。
「こういう人、冷蔵庫も整列させるからな」
まだ言ってないのに、言われた気がする。
颯人は封筒を引き出しに入れた。押し込まない。角が折れないよう、手を添えて滑らせる。
「破りません」
颯人が言った。
「必要なら、また出せるように。……でも、使い方は変えます」
「使い方?」
「手順じゃなくて」
颯人は引き出しを閉め、鍵も掛けずに、優の方を向いた。
「気持ちで、話す」
優はしばらく、頷けなかった。頷いたら、戻るための言葉が崩れてしまう。
代わりに、テーブルの上のマカロンを一つ取って、颯人の前に差し出した。
「じゃあ、これも。……味で、話します」
颯人は一瞬、目を丸くしてから、受け取った。受け取る指が、粉糖を落とさないように慎重で、優の胸がまた勝手に温度を上げた。
颯人が噛む。殻が割れ、クリームが広がる。
「……明日、店に持って行っていいですか」
「持って行くなら、ちほに一言ください。たぶん、箱見た瞬間に怒ります」
「怒られる理由が、まだ分かりません」
「たぶん、名前が長いからです」
優が言うと、颯人は口元だけで笑った。笑い方が控えめで、けれど逃げない。
そのとき、優のスマホが震えた。画面に、史周の名前が出ている。
『7/7 20:30 川沿い ステージ前集合。迷うやつは「橋の下」って言っとけ』
続けて、七夕から。
『水筒は人数分。甘いの食べたら水、飲め』
最後に、ちほ。
『まだ起きてるなら、帰りにアイス買ってこい。箱の名前は短くしろ』
優は声を出さずに笑い、颯人に画面を見せた。颯人は、三つ並んだ通知を見比べ、ゆっくりと息を吐いた。
「……皆さん、仲がいいですね」
「仲がいいっていうか、うるさいです」
「うるさい、の中に、助けが混ざってます」
颯人はそう言い、優のスマホから視線を外して、優の方を見た。
「七月七日。行きますか」
優は返事の前に、水を一口飲んだ。喉の奥がようやく柔らかくなる。
「行きます。……たぶん、帯が曲がってるって言われます」
「言われたら、直しましょう」
颯人はそう言って、立ち上がった。キッチンへ向かう足音が、さっきより軽い。
「もう一杯、温かいの入れます。甘いのの後は、喉が渇きますから」
優は背もたれに体を預け、テーブルの端に残った粉糖を指先で集めた。白い粒が、今夜の途中で落とした言葉みたいに、すぐに消えていく。
消えてしまうなら、また作ればいい。厨房で、手を動かして、ひとつずつ。
そう思ったとき、優は初めて、胸の奥で小さく「ありがとう」と言えた。
帰ってきてから、ふたりとも、言葉を数えている。靴をそろえる音、ネクタイを緩める音、洗面所の蛇口が一度だけ咳をする音。全部が、今夜の続きに触れないように遠回りしていた。
優は小さな紙袋をテーブルの端へ置いた。ちほに「途中で崩れたら泣くぞ」と言われて、両手で抱えて帰ってきたやつだ。
中身は、試作のマカロン。ラベンダーの香りをほんの少しだけ、湿った空気に混ぜた。名前は長い。ちほに笑われたのも、そのままだ。
「……食べますか」
優が言うと、颯人はソファの端で背筋を伸ばしたまま頷いた。口を開く前に、喉を一度鳴らす。昔からそういう手順があるみたいに。
優は箱を開け、紙をめくって、ひとつだけ取り出した。指先に、粉糖の粒がすこし付く。舐めると甘さが先に立って、後から香りが追いかけてくる。
颯人も一つ取る。噛む前に、目で確かめるように表面のひびを見て、薄い殻が割れる音を聞いた。
「……この香り、強くしないんですね」
「強くすると、食べた人の一日が、これで終わっちゃう気がして」
優は自分の言い方に、少しだけ笑った。厨房で言ったら、ちほが「詩人か」と殴ってくるやつだ。
颯人は笑わなかった。代わりに、マカロンを半分に割って、中のクリームを見た。断面がきれいに揃っているのを確認してから、もう半分を口に入れる。
優はその様子を見て、胸の奥が温度を上げるのを感じた。昨日までなら、そこを誤魔化せた。けれど今日は、誤魔化し方がわからない。
テーブルの上には、薄い封筒が置かれている。三か月の約束が書かれた紙。優の名前と、颯人の名前が、同じ欄に並んでいる。
優は紙袋の取っ手を指で捻った。捻り過ぎて、紙が鳴いた。
「期限が終わったら……」
言葉が、勝手に落ちた。落ちたのに、拾えない。
「私は、戻ります」
颯人の手が止まった。口の中の甘さも、そこで止まったみたいだった。
優は急いで続けようとした。言い訳を足すと、もっと薄くなる気がしたのに、止められない。
「最初に、そう約束しました。困らないように、元の暮らしに戻すって。だから……私は——」
颯人の視線が上がった。まっすぐで、逃げ場がない。
沈黙が、リビングの隅まで満ちていく。エアコンの微かな風の音が、逆に大きく聞こえた。
「戻してたまるか」
颯人が、短く言った。
優は息を飲んだ。怒鳴り声ではない。けれど、言葉の端が、今までより硬い。
テーブルの上のティーカップが、優の指先に当たって小さく揺れた。熱い。なのに、指が離れない。
「……颯人さん」
呼び方を間違えたみたいに、舌がもつれた。
「約束、です。私、約束で動いてきたんです。店も、材料も、従業員の給料も。全部、守るために」
颯人は息を吐き、ソファから立ち上がった。歩幅は大きくない。けれど、床に置く足の位置が迷わない。
優の前に来ると、まず手を伸ばさずに、テーブルの端に置いてあった封筒を取った。勝手に開けない。先に、確認するように優を見る。
優が頷くと、颯人は封を切り、紙を一枚ずつ丁寧に広げた。
「最初に言った約束は、あなたを閉じ込めるためじゃない」
颯人は紙の文面を見ながら言った。読むことに集中しているようで、声だけは優に向いている。
「あなたが嫌だと言ったら、終わりにする。そこだけは、今も変えません」
優は喉の奥で小さく笑いそうになって、やめた。笑ったら、泣きそうだった。
颯人は続けた。
「でも、あの家で言われた言葉を、あなたの中に残したまま、期限が来たからはい終わり、ってできない。……できないんです」
言葉が少しだけ乱れた。乱れたところだけ、余計に本当っぽい。
優は視線を落とした。封筒の角が、指に当たって痛い。
「私、ああいう席で、笑って受け流すの得意だと思ってました」
昨日の自分が、上手く笑えなかったのを思い出す。喉が固くなって、目の奥が熱くなって、手のひらだけが冷たくなった。
「でも、失敗しました。だから、戻るって言ったんです。ここに居たら、また失敗する気がして」
颯人は紙を揃え、ゆっくりと封筒に戻した。入れる順番まで、揃える。指先が、紙の端をそっと撫でた。
「失敗しても、いいです」
颯人は言った。
「失敗したら、次にどうするか、ふたりで決めればいい。……形のために、あなたを連れて行ったのは俺です。俺が、向き合う」
優は、思わず頬を押さえた。笑ってしまった。いまの言い方、少しだけ強引だ。
「急に、俺って言いましたね」
颯人の眉が動いた。言い間違えたときの顔だ。すぐに直そうとして、直せない。
「……すみません」
「謝るところじゃないです」
優は笑いながら、鼻の奥を押さえた。涙が出る前の合図を、身体が勝手に出す。
颯人は封筒を持ったまま、リビングのサイドボードへ歩いた。引き出しを開け、中身を一度見て、空いている場所を探す。
中には、ホテルのメモ帳と、細いペンと、なぜか未開封の爪楊枝が整列していた。優は見た瞬間、ちほの声が頭に浮かんだ。
「こういう人、冷蔵庫も整列させるからな」
まだ言ってないのに、言われた気がする。
颯人は封筒を引き出しに入れた。押し込まない。角が折れないよう、手を添えて滑らせる。
「破りません」
颯人が言った。
「必要なら、また出せるように。……でも、使い方は変えます」
「使い方?」
「手順じゃなくて」
颯人は引き出しを閉め、鍵も掛けずに、優の方を向いた。
「気持ちで、話す」
優はしばらく、頷けなかった。頷いたら、戻るための言葉が崩れてしまう。
代わりに、テーブルの上のマカロンを一つ取って、颯人の前に差し出した。
「じゃあ、これも。……味で、話します」
颯人は一瞬、目を丸くしてから、受け取った。受け取る指が、粉糖を落とさないように慎重で、優の胸がまた勝手に温度を上げた。
颯人が噛む。殻が割れ、クリームが広がる。
「……明日、店に持って行っていいですか」
「持って行くなら、ちほに一言ください。たぶん、箱見た瞬間に怒ります」
「怒られる理由が、まだ分かりません」
「たぶん、名前が長いからです」
優が言うと、颯人は口元だけで笑った。笑い方が控えめで、けれど逃げない。
そのとき、優のスマホが震えた。画面に、史周の名前が出ている。
『7/7 20:30 川沿い ステージ前集合。迷うやつは「橋の下」って言っとけ』
続けて、七夕から。
『水筒は人数分。甘いの食べたら水、飲め』
最後に、ちほ。
『まだ起きてるなら、帰りにアイス買ってこい。箱の名前は短くしろ』
優は声を出さずに笑い、颯人に画面を見せた。颯人は、三つ並んだ通知を見比べ、ゆっくりと息を吐いた。
「……皆さん、仲がいいですね」
「仲がいいっていうか、うるさいです」
「うるさい、の中に、助けが混ざってます」
颯人はそう言い、優のスマホから視線を外して、優の方を見た。
「七月七日。行きますか」
優は返事の前に、水を一口飲んだ。喉の奥がようやく柔らかくなる。
「行きます。……たぶん、帯が曲がってるって言われます」
「言われたら、直しましょう」
颯人はそう言って、立ち上がった。キッチンへ向かう足音が、さっきより軽い。
「もう一杯、温かいの入れます。甘いのの後は、喉が渇きますから」
優は背もたれに体を預け、テーブルの端に残った粉糖を指先で集めた。白い粒が、今夜の途中で落とした言葉みたいに、すぐに消えていく。
消えてしまうなら、また作ればいい。厨房で、手を動かして、ひとつずつ。
そう思ったとき、優は初めて、胸の奥で小さく「ありがとう」と言えた。