ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第16話 夜空に咲く一瞬の光

 七月七日、夜八時半。川沿いの遊歩道は、浴衣の裾と屋台の湯気で、歩くたびに息が甘くなる。ミッドナイト・ムーンストーンの正面玄関で待ち合わせたはずなのに、颯人はいつの間にか「混む前に行きましょう」と言って、裏手の社員通路から抜ける近道を選んでいた。
 「仕事のときみたいです」
 優が言うと、颯人は振り返らずに小さく笑った。手には、今日だけの通行証じゃなくて、紙袋。角がきっちり直角で、持ち手の紐までねじれていない。
 「屋台で迷って時間を使うより、先に渡したいものがあるので」

 川に出る手前で、七夕がすでに陣地を作っていた。レジャーシートの上に、折り畳みの小さな椅子が三脚。真ん中だけ、なぜか背もたれが付いている。
 「優、ここ。背中、冷えるから」
 七夕は、水筒を差し出してから、優の首元に冷感タオルをそっと当てた。優が「ありがとう」と言うより先に、七夕が頷く。
 「言う前に飲んで。喉、乾いてる顔」
 横で、ちほが袋から何かを取り出し、眉間に皺を寄せた。
 「ほんとに浴衣なの? 帯、曲がってる。ほら、こっち向け」
 「曲がってません……たぶん」
 優が抵抗しても、ちほはお構いなしに帯を掴んだ。指先が早い。結び目をいったんほどかずに、布の端だけを引いて角度を直す。
 「はい、これで人前に出られる。……颯人さん、見て」
 ちほは、直した帯を誇らしげに見せてから、颯人の方を向いた。
 「この子、放っておくと、気づかないふりして全部我慢します」
 「ちほ」
 優が言いかけたとき、颯人が静かに頭を下げた。
 「教えてくれて、ありがとうございます」
 ちほは一瞬きょとんとして、すぐに口を尖らせた。
 「……礼儀正しいの、ずるい」

 「おーい、ムーンストーンの皆さーん」
 堤防の方から、史周の声が飛んできた。小さなステージで、ギターを抱えている。浴衣の袖が弦に引っかからないように紐で結んであって、妙に手慣れている。
 「今から一曲。テーマは――『夜空に咲く一瞬の光』」
 史周が言うと、七夕が小声で「タイトル長い」と呟き、ちほが「箱の名前短くしろって言ったよね」と追い打ちをかけた。
 優は笑いながら、颯人の横顔を見た。颯人は、周囲の人波を確認し、足元の段差を確かめてから、優の進む先へ手を差し出した。握る、ではなく、落ちないように道を示す手だった。

 史周の歌は、派手な高音がない代わりに、言葉がまっすぐ届く。川の匂いと、屋台のソースの匂いと、どこかで誰かが落とした線香花火の煙が混ざって、音だけが浮かび上がる。
 颯人は歌を聴きながら、ふいに、屋台の前で足を止めた。焼きとうもろこしの店主が「いらっしゃい」と言いかけた瞬間、颯人は先に言う。
 「今日は、ありがとうございます。暑いのに」
 店主は驚いた顔をしたあと、照れたように「おう」と返した。
 優は、そのやり取りが胸の奥に小さな波を作るのを感じた。誰に対しても、先に言葉を差し出せる人。簡単そうで、優には難しい。

 紙袋の中身を思い出し、優は視線を下げた。颯人は、優の視線に気づいて、小さく頷く。
 「食べますか。座ってから」
 七夕が「食べる前に水」と言い、ちほが「食べる前に写真」と言う。史周の曲が終わると同時に、花火開始のアナウンスが流れた。

 最初の一発は、遠くで鳴って、遅れて胸に響いた。夜空に開いた光は、すぐに消える。けれど、消える前の一瞬だけ、川面に同じ形が映る。
 優は、息を吸い込んでから、颯人の手元を見た。颯人が紙袋から小さな箱を出す。箱のラベルは短い。
 『ラベンダー』
 「……ちほの監修ですか」
 「はい。『名前が長いと売れない』と言われました」
 「正しいです」
 ちほが胸を張り、七夕が「でも中身は長く考えた味」と付け足した。

 箱を開けると、淡い紫がかった殻が並んでいる。優が試作を何度も割って、何度も作り直した、ラベンダーミストムーンストーンの――名前を短くされたやつ。
 優は一つを持ち上げ、颯人の方へ差し出した。
 「……食べますか」
 颯人は受け取って、いきなり口に入れずに、まず香りを確かめた。目を閉じて、短く息を吐く。
 「母の匂いが、今日の匂いになってます」
 優は、返事を探して唇を開いたのに、花火の音が先に来た。優の声を奪うみたいに。
 颯人は、花火の光が顔に当たるタイミングで、優の方を向いた。視線は逃げない。いつも通り、相手の目を見る。
 「ありがとうを、毎日言います」
 優の胸が詰まって、喉が熱くなる。言葉が出ない。出ない代わりに、優は指先で颯人の袖をつまんだ。布が少し引かれて、颯人の腕がこちらへ寄る。
 それで十分だと思ったのに、颯人はそのまま、優の手の上に自分の手を重ねた。握りつぶす力ではなく、落とさないための重さ。
 「今日も、言います」
 「……今、言ってます」
 優は、やっと声を出せた。声がかすれて、七夕がすぐに水筒を差し出す。
 「ほら。喉、守って」
 優は水を飲み、呼吸を整えた。史周がステージから叫ぶ。
 「いいねえ! 今の、花火より眩しい!」
 ちほが「うるさい」と言い、七夕が「褒め方が雑」と言い、優は笑った。笑うと、胸の奥の固さが少しだけほどける。

 花火が続く間、颯人は、何度も「ありがとう」を言った。七夕が席を譲ってくれたとき。ちほが帯を直してくれたとき。史周が曲を変えてくれたとき。屋台の店主が、熱い串を紙で巻いて渡してくれたとき。
 優は、そのたびに驚いて、少しずつ真似をした。
 「……ありがとうございます」
 言った瞬間、相手の顔がふっと柔らかくなる。言葉って、こんなふうに届くんだ、と優は初めて実感した。

 最後の大玉が夜空いっぱいに開き、川が昼みたいに明るくなる。光が消える直前、颯人が、優の耳元に小さく言った。
 「帰ったら、また皿を洗いましょう」
 優は頷いた。豪華な夜の後に、泡だらけの水音が待っている。それが、少し嬉しい。
 「はい。……私、ちゃんと言います」
 「何を?」
 優は花火の終わりの余韻の中で、息を吸い込んだ。
 「今日も、ありがとうございました」
 颯人は、優の袖を握り返して、ゆっくり笑った。
 「こちらこそ」

 人波が動き出すと、足元に落ちた紙コップや割り箸の袋が、靴先で転がった。優が屈みかけた瞬間、ちほが先に拾う。
 「ほら。手が汚れるの嫌なら、袋使う」
 ちほはポケットから小さなビニール袋を出して、優に渡した。七夕が「衛生」と頷き、史周が「用意良すぎ」と笑う。
 優が袋を受け取ると、颯人も何も言わずに屈んで、近くの紙皿を拾った。拾った手で、すぐに自分の手を見て、少し困った顔をする。
 「……洗いたい」
 「帰ったら洗えます」
 優が言うと、颯人は小さく頷き、袋の口を押さえる係に回った。

 そのとき、堤防の下で、ホテルの清掃スタッフの制服が見えた。人混みに押されて、通路が詰まらないように誘導している。颯人は、一人ひとりに目を向けて、名前を呼んだ。
 「佐々木さん、ありがとうございます。田中さんも。……熱中症、気をつけて」
 声は大きくないのに、呼ばれた側の背筋がすっと伸びる。優は、胸の奥が熱くなった。
 颯人は、優の視線に気づいて、短く言った。
 「名札、普段から見てるだけです」
 「見てる、だけで呼べない人もいます」
 優が言うと、颯人は少しだけ首を傾げた。
 「なら、呼べるようにします。優さんも、一緒に」

 帰り道、優はスマホのメモを開き、短い一行だけ打った。
 『何気ない日常を淡々と描いた物語――今日は、言葉が届いた日。』

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