ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第17話 代わりに背負う人
翌週の火曜。午前九時十五分。ミッドナイト・ムーンストーンの地下二階、広報室の電話は、呼吸を忘れたみたいに鳴り続けていた。
壁の時計の秒針が一回跳ねるたび、受話器を置いた指先がもう一度震える。モニターにはニュースサイトの見出しが並び、見慣れない写真が添えられている。昨夜、川辺で見た花火の光。浴衣の袖。そこに、優の横顔が切り取られていた。
「もしもし。はい、当ホテルでございます。……ご質問の件ですが、私どもからは、私生活に関する回答は控えさせていただきます」
広報担当の女性が、丁寧な声のまま目だけで「次、お願い」と合図する。
隣のデスクでは若い男性が、額に貼りついた前髪を片手で押し上げながら、手元のメモに「同じ文言で返答」と書き足していた。紙の端が、何度も握られて波打っている。
扉が静かに開いた。
颯人が入ってくる。黒のスーツの肩に、朝の湿気が薄く残っていた。彼の半歩後ろに裕喬が続き、書類の束を机に置く。置く音が、まるで「落ち着け」と言っているみたいに小さかった。
颯人は一枚目のメモだけ目を通し、深く息を吐いた。怒鳴る代わりに、まず椅子を引く。机の角に手を置く。声の高さも、速度も変えない。
「今、外から来ているのは、どこですか」
「週刊誌が二社、ネットが三社です。写真が回って、名前まで探られて……」
広報担当が言い終える前に、電話がまた鳴った。
颯人は受話器を取るのではなく、先に頷いた。
「いつも通りで。こちらから余計な情報を出さない。聞かれたことにだけ答える」
裕喬が机の上に、短い文章が印字された紙を滑らせる。上から順に読めるよう、余白まで揃えてあった。
「発表の範囲」「従業員の安全」「お客様への配慮」――必要な言葉だけが並んでいる。
颯人は次に、広報担当の顔を見た。
「矢面に立つのは、僕です。現場に無理をさせない」
その言い方は、命令ではなく、頼み事に近かった。
同じ頃。午前十時。下町の菓子店の売り場。
優は包装紙を折り、リボンを結ぶ。結び目が少しでもずれたら、ほどいてやり直す。手の中で紙が鳴る音は、いつもと同じはずなのに、今日はやけに大きく聞こえた。
レジ横の小さな棚に、新作の試作マカロンが一段だけ置かれている。淡い紫の粉糖。ラベンダーの香りをほんの少しだけ。見た目は静かで、噂とは無関係みたいだった。
「優、これ……」
ちほがスマートフォンを伏せたまま、カウンターの内側に滑り込んでくる。顔は笑っているのに、目が笑っていない。売り場に立つお客の視線を気にして、声を細くした。
「今、外で、なんか……話してる人がいる」
優はリボンを引く手を止めなかった。
止めた瞬間、ほどけたみたいに、自分も崩れそうだったから。
「ごめん。迷惑かけてる」
「いや。迷惑って言うなら……迷惑かけてるの、誰だよって話」
ちほは、言い切る前に口を閉じた。代わりに、指で自分の胸を軽く叩く。深呼吸しろ、の合図だ。
休憩室に入ってから、ちほはスマートフォンを画面だけこちらに向けた。
『御曹司支配人、謎の妻――』
文字の並びは派手で、内容は薄い。写真は、昨夜の光の切れ端。優の袖口だけが切り取られて、そこに勝手な説明が貼りつけられていた。
優は、画面を見続けないように視線を外した。胃の奥が冷えていく。
「……私、ちゃんと説明しないと」
「誰に? ああいうの、説明したら、次を作るだけだよ」
ちほは言いながら、紙コップの水を差し出した。優の指先が受け取るまで、机に置かない。押しつけない。置き去りにもしない。
その日の午後四時半。優はホテルへ向かった。
従業員通路の空気は、厨房の熱と、洗剤の香りが混ざっている。歩くたび、靴底が少しだけ鳴った。心臓の音のほうがうるさいのに、耳は床の音まで拾ってしまう。
広報室の前に立つと、ドアの向こうから電話の声が漏れてきた。あの丁寧な声は、何度も噛まれて、少しだけ擦れている。
優はノックを二回し、返事を待った。
「どうぞ」
颯人の声だった。
扉を開けると、広報室の机は書類で埋まっていた。紙の山の向こうで、颯人が立っている。袖口を少しだけまくり、ネクタイを緩めている。忙しさを隠そうともしないのに、目だけは落ち着いていた。
裕喬が、優の姿に気づいて席を立つ。言葉は要らないというように、湯気の立つ紙コップを手渡した。中は白湯だった。香りがないぶん、喉にやさしい。
優はコップを握りしめ、先に頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで……」
「違う」
颯人は短く言い、優が続きを口にできないようにした。叱るのではなく、遮る。
「写真を撮られたのは、僕の不注意だ。君を連れていたのも、僕だ」
「でも、私は……」
優は言いかけて、言葉が詰まった。昔から、何かが起きるたびに、同じ台詞を口にしてきた。「私がやりました」「私が悪いです」。そう言うと、周りが少しだけ楽になる。代わりに、自分の胸が重くなる。
その重さに慣れるのが、大人だと思っていた。
颯人は机の角に置いていた手を離し、優の前まで歩いてきた。歩幅は大きいのに、音を立てない。近づくほど、ラベンダーの淡い香りがした。彼の胸ポケットの内側。母の形見の小さな袋が、そこにあるのだと優は知っている。
「君は、また一人で背負おうとしてる」
優は息を吸った。反論したいのに、言葉が見つからない。背負うのが癖になっている。背負わないと、置き場所がない。
颯人は優の手元を見た。コップを握る指が白くなっている。
「代わりに背負うのは、もう終わりにしたい」
優の胸が、きゅっと縮む。守られることが、嬉しいより先に、怖い。守りが消えた瞬間が、想像できてしまうからだ。
颯人は、優の指からコップをそっと受け取り、机に置いた。
「並んで背負う。僕が前に立つ。君は、君の言葉で立つ。どちらか一人が倒れないように」
裕喬が、机の上の紙を一枚、裏返した。白紙の面を上にする。書きやすい場所を用意するみたいに。
「言葉……」
優は、小さく呟いた。
広報の文章なんて書いたことがない。菓子のレシピなら、細かい分量まで揃えられるのに。
颯人は、優の目線の高さに合わせるように少しだけ腰を折った。
「君は、言葉を整えるのが上手い。厨房で、何度も見た。味を揃えるのと、似てる」
優は頷き、白紙にペン先を落とした。
まず、事実だけを書く。いつ、どこで、誰が、何を。余計な飾りを削る。
『当ホテル支配人・颯人と、菓子職人の優は、両家の合意のもと婚姻いたしました。』
そこで手が止まる。職人、と書いた瞬間、胸が少しだけ楽になった。自分が立っている場所を、隠さないでいい。
ペンが紙を走る音に、電話のベルが重なる。
颯人が受話器を取り、いつもの速度で言った。
「はい。お答えします。……本人の出自を面白がる話には、乗りません。私どもは、お客様と従業員を守ります。必要なことは、必要な範囲で発表します」
言い切ったあと、颯人は受話器を置いた。勢いよくではなく、丁寧に。
優は、白紙を見つめた。
守られている、と思うだけでは足りない。並んで立つなら、足元を揃えないといけない。
優は、もう一行、書き足した。
『当人は、日々の仕事に誠実に向き合い、今後も菓子作りを続けます。』
書き終えた瞬間、指先の力が抜けた。背中の重さが、ほんの少しだけ分かれていく感じがした。
颯人が紙を読み、頷いた。
「これでいこう」
裕喬がすぐにコピーを取りに立つ。誰も大げさに褒めない。その代わり、動きが速い。
優は、広報室の窓の外を見た。夕方の空は、薄い紫に近い色をしている。花火の残像は消えているのに、まだどこかに光が残っている気がした。
「……私、また、同じことをしそうになってました」
颯人は笑わずに、ただ頷く。
「気づけたなら、十分だ」
その言葉は、甘くないのに、温度があった。
優はポケットからメモ帳を取り出し、昨日の自分の一行を読み返した。
『今日は、言葉が届いた日。』
届いたのは、花火の音だけじゃない。隣に立つ人の声もだ。
広報室の電話が、また一度鳴った。
今度は、怖さより先に、やるべきことが浮かぶ。
優は椅子に座り直し、ペンを握り直した。
同じ台所で、同じ明日を作るために。
壁の時計の秒針が一回跳ねるたび、受話器を置いた指先がもう一度震える。モニターにはニュースサイトの見出しが並び、見慣れない写真が添えられている。昨夜、川辺で見た花火の光。浴衣の袖。そこに、優の横顔が切り取られていた。
「もしもし。はい、当ホテルでございます。……ご質問の件ですが、私どもからは、私生活に関する回答は控えさせていただきます」
広報担当の女性が、丁寧な声のまま目だけで「次、お願い」と合図する。
隣のデスクでは若い男性が、額に貼りついた前髪を片手で押し上げながら、手元のメモに「同じ文言で返答」と書き足していた。紙の端が、何度も握られて波打っている。
扉が静かに開いた。
颯人が入ってくる。黒のスーツの肩に、朝の湿気が薄く残っていた。彼の半歩後ろに裕喬が続き、書類の束を机に置く。置く音が、まるで「落ち着け」と言っているみたいに小さかった。
颯人は一枚目のメモだけ目を通し、深く息を吐いた。怒鳴る代わりに、まず椅子を引く。机の角に手を置く。声の高さも、速度も変えない。
「今、外から来ているのは、どこですか」
「週刊誌が二社、ネットが三社です。写真が回って、名前まで探られて……」
広報担当が言い終える前に、電話がまた鳴った。
颯人は受話器を取るのではなく、先に頷いた。
「いつも通りで。こちらから余計な情報を出さない。聞かれたことにだけ答える」
裕喬が机の上に、短い文章が印字された紙を滑らせる。上から順に読めるよう、余白まで揃えてあった。
「発表の範囲」「従業員の安全」「お客様への配慮」――必要な言葉だけが並んでいる。
颯人は次に、広報担当の顔を見た。
「矢面に立つのは、僕です。現場に無理をさせない」
その言い方は、命令ではなく、頼み事に近かった。
同じ頃。午前十時。下町の菓子店の売り場。
優は包装紙を折り、リボンを結ぶ。結び目が少しでもずれたら、ほどいてやり直す。手の中で紙が鳴る音は、いつもと同じはずなのに、今日はやけに大きく聞こえた。
レジ横の小さな棚に、新作の試作マカロンが一段だけ置かれている。淡い紫の粉糖。ラベンダーの香りをほんの少しだけ。見た目は静かで、噂とは無関係みたいだった。
「優、これ……」
ちほがスマートフォンを伏せたまま、カウンターの内側に滑り込んでくる。顔は笑っているのに、目が笑っていない。売り場に立つお客の視線を気にして、声を細くした。
「今、外で、なんか……話してる人がいる」
優はリボンを引く手を止めなかった。
止めた瞬間、ほどけたみたいに、自分も崩れそうだったから。
「ごめん。迷惑かけてる」
「いや。迷惑って言うなら……迷惑かけてるの、誰だよって話」
ちほは、言い切る前に口を閉じた。代わりに、指で自分の胸を軽く叩く。深呼吸しろ、の合図だ。
休憩室に入ってから、ちほはスマートフォンを画面だけこちらに向けた。
『御曹司支配人、謎の妻――』
文字の並びは派手で、内容は薄い。写真は、昨夜の光の切れ端。優の袖口だけが切り取られて、そこに勝手な説明が貼りつけられていた。
優は、画面を見続けないように視線を外した。胃の奥が冷えていく。
「……私、ちゃんと説明しないと」
「誰に? ああいうの、説明したら、次を作るだけだよ」
ちほは言いながら、紙コップの水を差し出した。優の指先が受け取るまで、机に置かない。押しつけない。置き去りにもしない。
その日の午後四時半。優はホテルへ向かった。
従業員通路の空気は、厨房の熱と、洗剤の香りが混ざっている。歩くたび、靴底が少しだけ鳴った。心臓の音のほうがうるさいのに、耳は床の音まで拾ってしまう。
広報室の前に立つと、ドアの向こうから電話の声が漏れてきた。あの丁寧な声は、何度も噛まれて、少しだけ擦れている。
優はノックを二回し、返事を待った。
「どうぞ」
颯人の声だった。
扉を開けると、広報室の机は書類で埋まっていた。紙の山の向こうで、颯人が立っている。袖口を少しだけまくり、ネクタイを緩めている。忙しさを隠そうともしないのに、目だけは落ち着いていた。
裕喬が、優の姿に気づいて席を立つ。言葉は要らないというように、湯気の立つ紙コップを手渡した。中は白湯だった。香りがないぶん、喉にやさしい。
優はコップを握りしめ、先に頭を下げた。
「ごめんなさい。私のせいで……」
「違う」
颯人は短く言い、優が続きを口にできないようにした。叱るのではなく、遮る。
「写真を撮られたのは、僕の不注意だ。君を連れていたのも、僕だ」
「でも、私は……」
優は言いかけて、言葉が詰まった。昔から、何かが起きるたびに、同じ台詞を口にしてきた。「私がやりました」「私が悪いです」。そう言うと、周りが少しだけ楽になる。代わりに、自分の胸が重くなる。
その重さに慣れるのが、大人だと思っていた。
颯人は机の角に置いていた手を離し、優の前まで歩いてきた。歩幅は大きいのに、音を立てない。近づくほど、ラベンダーの淡い香りがした。彼の胸ポケットの内側。母の形見の小さな袋が、そこにあるのだと優は知っている。
「君は、また一人で背負おうとしてる」
優は息を吸った。反論したいのに、言葉が見つからない。背負うのが癖になっている。背負わないと、置き場所がない。
颯人は優の手元を見た。コップを握る指が白くなっている。
「代わりに背負うのは、もう終わりにしたい」
優の胸が、きゅっと縮む。守られることが、嬉しいより先に、怖い。守りが消えた瞬間が、想像できてしまうからだ。
颯人は、優の指からコップをそっと受け取り、机に置いた。
「並んで背負う。僕が前に立つ。君は、君の言葉で立つ。どちらか一人が倒れないように」
裕喬が、机の上の紙を一枚、裏返した。白紙の面を上にする。書きやすい場所を用意するみたいに。
「言葉……」
優は、小さく呟いた。
広報の文章なんて書いたことがない。菓子のレシピなら、細かい分量まで揃えられるのに。
颯人は、優の目線の高さに合わせるように少しだけ腰を折った。
「君は、言葉を整えるのが上手い。厨房で、何度も見た。味を揃えるのと、似てる」
優は頷き、白紙にペン先を落とした。
まず、事実だけを書く。いつ、どこで、誰が、何を。余計な飾りを削る。
『当ホテル支配人・颯人と、菓子職人の優は、両家の合意のもと婚姻いたしました。』
そこで手が止まる。職人、と書いた瞬間、胸が少しだけ楽になった。自分が立っている場所を、隠さないでいい。
ペンが紙を走る音に、電話のベルが重なる。
颯人が受話器を取り、いつもの速度で言った。
「はい。お答えします。……本人の出自を面白がる話には、乗りません。私どもは、お客様と従業員を守ります。必要なことは、必要な範囲で発表します」
言い切ったあと、颯人は受話器を置いた。勢いよくではなく、丁寧に。
優は、白紙を見つめた。
守られている、と思うだけでは足りない。並んで立つなら、足元を揃えないといけない。
優は、もう一行、書き足した。
『当人は、日々の仕事に誠実に向き合い、今後も菓子作りを続けます。』
書き終えた瞬間、指先の力が抜けた。背中の重さが、ほんの少しだけ分かれていく感じがした。
颯人が紙を読み、頷いた。
「これでいこう」
裕喬がすぐにコピーを取りに立つ。誰も大げさに褒めない。その代わり、動きが速い。
優は、広報室の窓の外を見た。夕方の空は、薄い紫に近い色をしている。花火の残像は消えているのに、まだどこかに光が残っている気がした。
「……私、また、同じことをしそうになってました」
颯人は笑わずに、ただ頷く。
「気づけたなら、十分だ」
その言葉は、甘くないのに、温度があった。
優はポケットからメモ帳を取り出し、昨日の自分の一行を読み返した。
『今日は、言葉が届いた日。』
届いたのは、花火の音だけじゃない。隣に立つ人の声もだ。
広報室の電話が、また一度鳴った。
今度は、怖さより先に、やるべきことが浮かぶ。
優は椅子に座り直し、ペンを握り直した。
同じ台所で、同じ明日を作るために。