ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第18話 書いた言葉が見つかる

 木曜の夜。午後九時十七分。下町の菓子店の二階、借りたままの小さな台所に、オーブンの余熱がまだ残っていた。
 窓ガラスに映る手元は、泡だらけだ。優は皿をすすぎながら、蛇口の水をいつもより細くしている。音が大きいと、頭の中の言葉が散ってしまう気がした。

 テーブルの上で、颯人のスマートフォンが一度だけ震えた。
 画面に浮かんだのは、短い通知。ホテルの広報室からではない。知らない番号でもない。けれど文面が、妙に丁寧だった。
 『匿名で書かれている文章について、取材をお願いしたい』
 その後ろに、小さく添えられたリンク。

 優は、皿を持つ手を止めた。泡が指をすり抜け、つるりと落ちそうになる。
 「……誰から」
 「読書系のウェブ媒体らしい」
 颯人は画面を見たまま、声だけ落とした。優の背中が固くなるのを、見なくても分かっているみたいに。

 優は、手を洗ってから椅子に座った。水滴をタオルで拭き、指先を乾かす。汚れたまま触れたくなかった。
 リンクを開くと、見慣れた言葉が目に刺さった。
 『これは好きの残骸です』
 自分の、下書きの題名だった。

 喉の奥が、きゅっと縮む。
 「あれ……公開にしてないはず」
 「設定が変わったのかもしれない。ほら、下書きって、保存場所がいくつもあるだろう」
 颯人は責めない。推測を、静かに並べる。けれど、その落ち着きが逆に怖かった。事実が、形を変えずにそこにある、ということだから。

 優は、画面を下へ滑らせた。
 数行だけ抜き出され、別の文章に引用されている。勝手に意味づけされ、勝手に「未練」や「憎しみ」のラベルが貼られていた。
 優の胃の奥が、冷えていく。

 「消します」
 言いながら、優の指はすでに設定画面のボタンを探していた。手が震える。震えているのに、いつもの仕込みの手順みたいに動くのが、余計に情けなかった。

 颯人が、優の手首を掴まない。代わりに、テーブルの上に自分の手を置いた。そこへ、優の視線を誘う。
 「消すなら、一緒に消す」
 「……え」
 「残すなら、一緒に受ける」
 颯人は、短い言葉だけを渡した。重たいものほど、言葉を増やすと滑るから、と知っている人の言い方だった。

 優は、親指を止めた。画面の『非公開』の文字が、今は罰みたいに見える。
 「私、あれ……誰かを責めたくて書いたんじゃない。なのに」
 「なら、そう書けばいい」
 颯人は背もたれに寄りかからず、前に少しだけ身を乗り出した。
 「君の言葉を、君が取り戻す」

 そのとき、階下の呼び鈴が鳴った。
 「こんばんはー! 糖分、足りてますかー!」
 史周の声だ。ノックも待たずに、階段を駆け上がる足音がする。
 続けて、もう一人の足音。一定のテンポで、迷いがない。
 「二人とも、夜のカフェインは控えめに。代わりに、これ」
 七夕が言いながら、小さな保冷バッグを掲げる。中身は、ナッツと炭酸水と、冷やしたハーブティー。

 優は慌ててスマートフォンを伏せたが、史周はすでに空気を嗅ぎ取っていた。
 「なんか、顔が『砂糖切れ』じゃなくて『心切れ』だね」
 言い方が雑なのに、妙に当たっていて、優は笑うしかなかった。笑うと、涙が出そうになるから。

 七夕はテーブルの上のスマートフォンを見て、すぐに状況を察したらしい。
 「公開の文章? 名前は出てない?」
 「出てない。けど……」
 優が言い淀むと、七夕は椅子を引いて座り、タブレットを取り出した。
 「じゃあ、文章を整える。今夜、できるところまでやる。眠る前に、終わりが見えると、朝の顔が違うから」

 遅れて、裕喬も来た。時間は午後十時ちょうど。扉を開ける前に、靴ひもを結び直してから入ってくる。
 「噂の火種は、火で消すより、酸素を断つ。けれど、言葉は別だ」
 裕喬は鞄から紙とペンを出し、優の前に置いた。
 「本人の手で、意味を戻したほうがいい。消すのは、最後でいい」

 優は紙を見つめた。白い紙は、あの夜の白いメモを思い出させる。
 書いた一行が、誰かに届く。届いたら、戻ってくる。いい形でも、悪い形でも。

 「……私、昔、好きだった人がいたんです」
 優は、過去形で言った。現在形にしないために、息を整える。
 「その人の前で、頑張るほど、うまく笑えなくなって。甘いものを作るのに、口の中が苦くて」
 史周が、黙って指を二本立てる。七夕が彼の肘を軽く叩いて止める。おふざけのスイッチを、今は入れない。二人のやり取りが、妙に温かい。

 颯人は何も言わず、優の言葉が止まるのを待った。
 待つ、という行為が、優にとっては答えだった。

 優は、紙の上に題名を書いた。
 『これは好きの残骸です』
 その下に、別の一行を足した。
 『残ったのは、恨みじゃなくて、教わった手順だった』
 言いながら、自分で驚く。過去の恋が、技術みたいに手元に残っている。痛みだけじゃない。学びも、ある。

 「その人のこと、嫌いになりきれなくて、苦しかった」
 優は正直に書いた。誤魔化さない。けれど、そこで止まらない。
 『でも、今の私が、今日も仕込み台に立てるのは、あの頃の私が逃げなかったからだ』
 『だから、ありがとうで終わらせる』
 ペン先が紙を滑り、最後の句点で、肩の力が少し抜けた。

 七夕が頷く。
 「これなら、読んだ人が勝手に決めつけにくい。あなたの結論が、ちゃんとある」
 裕喬も、紙の余白に小さく補足案を書き足す。
 「具体を入れると強い。たとえば、どんな匂いで思い出したとか、どんな音で戻ったとか」
 史周は、突然ギターケースを開けた。優が身構える前に、彼は小さく肩をすくめる。
 「今は弾かない。代わりに、これ」
 ケースの中から、折りたたんだレターセットが出てくる。どこで手に入れたのか分からない、ラベンダー柄。
 「最後に、手紙っぽい一段落を書いたら、読んだ人が『誰かを攻撃してる』って思いにくいよ」

 優は、思わず笑った。
 「史周くん、急に編集者みたい」
 「路上はね、三秒で伝わらないと、誰も振り向かないんだよ」
 さらりと言って、彼は炭酸水を開ける。ぷしゅ、と音がして、台所の空気が少しだけ軽くなった。

 颯人は、優の書いた紙の端を見つめていた。ラベンダー柄のレターセットを手に取り、指でそっと撫でる。
 「……母が、ラベンダーの香りが好きだった」
 その一言が、優の胸を静かに叩いた。
 「覚えている匂いがあるのは、強い。消えないものが、消さなくていい形になる」

 優は、スマートフォンを開き直した。
 非公開のまま、本文を編集する画面へ移る。指先の震えは、さっきより小さい。
 『これは好きの残骸です』
 その下に、今日書いた文章を移した。匂いの話も、音の話も、仕込み台の冷たさも、具体で埋める。誰かを殴るための言葉じゃなく、明日へ手を伸ばすための言葉にする。

 投稿ボタンを押す直前、優は颯人を見た。
 「……怖い」
 颯人は、即座に「大丈夫」と言わない。代わりに、優の目を見て、ゆっくり頷いた。
 「怖いまま、押そう。僕もここにいる」
 優は息を吸って、指を落とした。

 数分後、画面に一つだけ通知が来た。
 『読んで、泣きました。終わり方が、やさしかったです』
 名前のない、短い言葉。
 優は、それを何度も読み返した。胸の奥に刺さっていた棘が、少しだけ向きを変える。

 階下では、ちほがシャッターを開ける音がした。夜の仕込みに来たらしい。階段の途中で顔を出し、優の目を見て一言だけ言う。
 「……あんた、文章、案外いいじゃん」
 それだけ言って、すぐに降りた。照れを隠すみたいに足音が速い。

 優は笑って、目尻を拭いた。
 颯人が小さく息を吐き、泡の残った指で自分のカップを持つ。
 「明日は金曜だ。朝が早い」
 「うん。五時に起きる」
 優は、いつもの予定を口にしてみせた。予定が言えるのは、明日がまだ自分のものだと思えるからだ。

 テーブルの上の紙は、白いままではなかった。言葉が乗って、重さが変わった。
 消すか、残すかだけじゃない。整えて、意味を戻す。そういう選び方がある。

 優は、最後に一行だけ、匿名の日記に書き足した。
 『残ったものは、次の手順にする』
 そして、ペンを置いた。

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