ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第19話 選ぶ、という行動

 月曜の朝。午前八時三十五分。ミッドナイト・ムーンストーンの別館、窓のない会議室は、空調の音だけがやけに大きかった。
 長い机の向こうに、親族が並ぶ。先週、優の手元を確かめた叔母もいる。指輪の有無を見たあの視線は、今朝も同じ角度で颯人へ向いていた。

 颯人の隣には、裕喬が立っている。資料の束は分厚いのに、裕喬の動きは音を立てない。椅子を引く角度まで計算しているのが、見ているだけで分かる。
 「では、始めましょう」
 年長の男性が言った。声が低い。言い切りが早い。
 「支配人は、いつまで“現場ごっこ”を続けるんだ」
 叔父が紅茶を置く音が、机に響いた。皿に触れたスプーンが、わざとらしく鳴る。

 颯人は、背筋を伸ばしたまま、視線を落とさない。
 「ごっこではありません」
 「……名前が軽い。店の女を妻にして、何を守るつもりだ」
 叔母が扇子を閉じる。ぱちん、と小さな音。
 「あなたが守るべきは、家とホテルでしょう」

 優はここにいない。呼ばれていない。呼べばいいのに、と喉の奥が騒ぐが、颯人は、優がこの部屋で呼吸を浅くする姿を想像して、昨日の夜に一人で決めた。
 呼ばない。代わりに、自分が全部引き受ける。

 颯人は、机の上に置いていた白い紙を一枚、前へ滑らせた。
 「席を手放してもいいです」
 椅子が、二脚分、きしんだ。息を飲む音が混ざる。
 「……何だと?」
 年長の男性が眉を動かした。
 「条件があります。優を、人を選ぶ道具にしないでください。彼女の店も、彼女の手も、笑い話にしないでください」

 叔母が笑った。唇だけの笑いだ。
 「そんなに大事なら、せめてふさわしい形に——」
 「形だけなら、もう十分です」
 颯人が遮る。声は荒くないのに、言葉が鋭い。
 「僕が欲しいのは、彼女の明日です」

 裕喬が、一歩前へ出た。
 「では、数字ではなく、声を読み上げます」
 裕喬は資料の一枚を持ち上げる。紙には、手書きの文字が写されていた。整った字も、崩れた字も混ざっている。
 「清掃の佐山。『支配人が夜勤の名前を覚えたの、初めて見た』」
 親族の誰かが鼻で笑いかけ、途中で止めた。
 「厨房の山吹。『奥さまが、床の油を一緒に拭いた。あれは見栄じゃない』」
 叔母の扇子が、開きかけて止まる。
 「フロントの若手。『“怒鳴らない”のが当たり前だと思ってたけど、当たり前じゃないんだと知った』」
 「……奥さま?」
 年長の男性が、言葉を拾った。

 裕喬は顔色を変えずに続ける。
 「ムーンストーン洋菓子店のちほ。『支配人さん、優の手荒れに気づいたなら、クリーム買ってこい。あと、夜更かしさせるな』」
 会議室の空気に、一瞬だけ隙間ができた。笑い声になり損ねた息が、あちこちで漏れる。
 「同じく、七夕。『甘いものは一日一個。奥さまの胃に負担をかけるな。支配人は水を飲め』」
 裕喬は淡々と紙を戻し、最後の一枚を出す。
 「史周。『身分の差なんて、笑える方が勝つ。守るなら、正面から』」

 颯人は、裕喬が置いた紙を見た。自分の言葉ではないのに、胸の奥に熱が集まってくる。
 「……以上です」
 裕喬が言い終えた瞬間、会議室の空調の音が戻ってきたように感じた。

 年長の男性は、しばらく黙り、指先で机を二度叩いた。
 「席を手放す、という話は軽くない」
 「分かっています」
 「だが——」
 言いかけて、年長の男性は目を伏せた。伏せる先に、手書きの文字がある。
 「現場の声を、ここまで揃えたのは……お前か」
 「僕と、裕喬です」
 「妻は?」
 「今朝は、店にいます。開店準備です」
 叔母が小さく舌打ちをした。
 「そんな場所の人間が——」
 「その“場所”が、僕のホテルの朝食を支えています」
 颯人は、はっきり言った。
 「僕は、どちらも捨てません。家も、ホテルも、優も。僕が席を手放しても、優を踏み台にはしない」

 会議は、結論を先延ばしにした。次回の日程だけが決まる。
 それでも颯人は、机の下で拳を握りしめ、握りしめたまま離さなかった。
 先延ばしは、断罪ではない。守る時間が、少しだけ増えた。

 その夜。午後十時四十二分。スイートのリビングは、照明を落としていた。窓の向こうに、街の灯が薄く揺れている。
 優はエプロンを外し、手の甲を見た。指の関節が白い。泡と熱で、今日も少し赤い。
 「遅くなりました」
 「おかえり」
 颯人は立ち上がらなかった。代わりに、テーブルの上の小さな箱へ手を置いた。

 優は箱を見て、喉が鳴るのを自分で聞いた。
 「……それ、食べ物じゃないですよね」
 「食べ物ではありません」
 「じゃあ、ちほに怒られます。『勝手に高いもの買うな』って」
 優が言うと、颯人は苦笑して、箱を開けた。

 淡い青紫の石が、光を抱いている。派手にきらめかないのに、目を離せない。
 「ムーンストーンの仲間です」
 颯人は耳まで赤くして言った。
 「呼び名があって……長いんですけど」
 「長いのは、七夕が得意です。漢字で」
 「僕が言いたいのは、漢字じゃなくて」
 颯人は一度、息を吸う。
 「ラベンダーミストムーンストーン、って呼んでいい?」
 優は、思わず笑ってしまった。口を押さえると、指先が温かい。
 「名前で照れる人、初めて見ました」
 「照れます。……優が呼ぶなら、なおさら」
 颯人は箱から指輪を取り、優の手をそっと持ち上げた。握らない。逃げ道を残す触れ方だ。
 「今日、家で言いました。席を手放してもいいって」
 優の笑いが、止まる。
 「……そんなことまで」
 「優のことを、道具みたいに言われた」
 颯人は目を逸らさずに言う。
 「僕は、優を選びました。だから、これは僕の都合です。受け取らなくてもいい。でも……選んでほしい」

 優は、指輪の石を見た。青紫の奥に、霧みたいな白が揺れる。
 自分が、どこかの“ふさわしさ”で測られるたび、拳を握りしめる癖がついていた。握りしめると、指先が冷える。
 今、颯人の掌は温かい。優の指を、温度でほどいてくる。

 「指輪って、作業の邪魔になります」
 優が言うと、颯人が目を見開いた。
 「……邪魔なら、外します。じゃあ、これ、家に置く?」
 「置いたら、また叔母さんが見ます」
 「確かに」
 ふたりの間に、短い笑いが落ちた。

 優は指を差し出した。
 「仕事中は外します。帰ったら、つけます」
 颯人が、息を吐く。安心したみたいに。
 指輪は、ぴたりと収まった。裕喬が前に「サイズは、紙じゃなくて本人で確認しろ」と真顔で言っていたのを思い出し、優は胸の内で裕喬に一礼した。

 深夜零時五分。キッチンの流し台に、皿が二枚並ぶ。
 優は泡立てたスポンジを握り、颯人の指輪のない手元を見た。彼も外している。逃げ道を残す人は、同じだけ自分も外す。
 「水、冷たくない?」
 颯人が聞く。
 「冷たいです」
 「じゃあ、僕が洗う」
 「ダメです。油の落ち方が違うので」
 優が即答すると、颯人は小さく笑って、袖をまくった。
 「じゃあ、すすぎ係で」
 「すすぎ係は、泡だらけになります」
 「泡だらけの手で言うと、説得力がある」

 ふたりは並んで立ち、皿を回す。皿の縁に残る泡が、流れ落ちる。
 颯人は泡だらけの手のまま、優の横顔を見た。
 「今日も、ありがとう」
 言い方が、いつもより慎重だ。家族会議の声を全部飲み込んで、最後に出てきた言葉みたいに。
 優は、水を止めてから返した。
 「こちらこそ。……颯人さん、ありがとう」

 返した瞬間、颯人の肩が、ほんの少しだけ下がった。鎧の留め具が外れたみたいに。
 優は、指輪の石を見た。淡い青紫の霧は、台所の灯りでも、ちゃんとそこにいた。
 名前が長いのは、覚えるまでに時間がかかる。
 でも、時間なら、ここにある。

 優はスポンジを置き、颯人の泡だらけの手に自分の手を重ねた。
 「明日も、洗います?」
 「洗います」
 「じゃあ、手を守るために。帰りにクリーム、買ってください」
 颯人は目を丸くしてから、うなずいた。
 「命令ですね」
 「命令です」
 優が言うと、颯人は笑った。今度は、すぐ元に戻らない笑いだった。

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