ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第3話 期間限定の夫婦

 月曜の十九時半。ミッドナイト・ムーンストーンのラウンジは、平日の落ち着いた明るさだった。窓の外は湾岸の夜景が薄く揺れていて、グラスの氷が小さく鳴るたび、優の肩がぴくりと動く。

 優は制服ではなく、菓子店の帰りに着替えた地味なワンピースで椅子に座っていた。胸の内側に、泡立て器の柄を握ると落ち着く癖が残っている。代わりに、膝の上の小さなノートを押さえた。

 颯人は向かいの席に座り、コースターの位置を一度直してから視線を上げた。
 「来てくれて、ありがとうございます。土曜も……」
 「土曜は、私が勝手に……」
 「いえ。あなたが来なかったら、今ごろ私は、もっと困っていました」

 礼を言うとき、颯人は必ず相手の目を見る。その癖に、優は慣れていない。視線を受け止めた瞬間、胸の中で、焼き上げ前の生地がふくらむみたいに圧が上がった。

 颯人は息を整え、言葉を選ぶために水を一口飲んだ。グラスを置く音が、妙に大きい。
 「今日は、お願いがあります」
 「はい」
 「三か月だけ、私の妻という形になってほしいんです。住む場所も、こちらで用意します」

 優の指先が止まった。ノートの紙が、汗で少し湿った。
 「……妻、ですか」
 「最初は法的な手続きまではしません。家の人間に見せるための、形から始めます。必要なのは、同居している事実と、ふたりで食卓を囲む写真と、外で腕を組む程度の距離感です」

 距離感、という言い方が、妙に笑いを誘った。けれど優の喉は笑い方を思い出せない。優はグラスの水を一口飲み、唇をぬらしてからノートを開いた。

 「……条件を、聞いてもいいですか」
 「もちろんです」
 「私は、ムーンストーン洋菓子店を辞めません。朝五時に起きて、仕込みをします。シフトの変更が必要なら、先に言ってください」
 「辞めさせません。あなたの仕事の時間は守ります」
 「同居の部屋は、ひとつですか」
 「寝室は別にします。鍵もそれぞれに」
 「冷蔵庫は……」
 「冷蔵庫?」
 「開けていいですか。材料の匂いが移るのは困るので、置き方を……」

 颯人が、一瞬だけ固まった。優は自分が今、ホテルのラウンジで冷蔵庫の話をしていることに気づき、耳が熱くなる。
 「すみません。変ですよね」
 「いえ。変じゃないです。むしろ……その視点は助かります。生活は、そういうところから崩れますから」

 優はノートに、生活の文字を小さく書き、すぐに消した。今は消していい。三か月だけの形なら、余計な味を足す必要はない。

 「最後に。三か月が終わったら、どうなりますか」
 颯人は少しだけ眉を寄せた。考える前に答えない癖が、そこにも出る。
 「あなたが困らないように、元の暮らしに戻す。約束します。あなたが店で働き続けられるように、私ができることはします」
 「……店を守れるなら」
 優はその言葉を、口にしてから驚いた。自分の声が、思ったよりまっすぐだったからだ。
 「私でよければ。三か月、やります」

 颯人は、すぐに笑わなかった。代わりに、ゆっくり頷いて、椅子から少しだけ身を乗り出した。
 「ありがとうございます。あなたに頼むのは、簡単なことじゃない。だから、できる限りの説明と、できる限りの配慮をします」

 頷いたのに、優の胃がきりりと痛んだ。甘いものを作る胃なのに、今は苦い。

 ラウンジを出ると、通路の灯りが白く見えた。優が胸の奥で息を吸い直した瞬間、正面から歩いてきた裕喬が、タイミングよく立ち止まった。

 「お待たせしました。段取りの確認です」
 裕喬は、書類の入った薄いファイルを片手に持っている。紙の角がきれいに揃っていて、持ち方まで静かだった。

 「今日中に済ませることは三つです。鍵の受け取り、同居に関する館内ルールの説明、それと——明日からの動線の確認」
 「動線……?」
 「朝の出入り口です。優さんは厨房の搬入口を通る必要はありません。一般の玄関を使ってください。制服で出入りすると目立ちます」

 裕喬の声は淡々としているのに、言われるほど現実味が増す。優の胃がまた小さく鳴り、優は思わず腹に手を当てた。裕喬がそれを見て、視線を外すでもなく、軽く言った。
 「空腹は、判断を鈍らせます。今からコンビニに寄りますか」
 「寄りません。今食べたら……味が分からなくなりそうで」
 「菓子職人の返事ですね」

 ほんの少しだけ、裕喬の口元がゆるんだ。優はその一瞬に救われる。硬い空気に、砂糖を一粒落としたみたいに。

 ホテルのロビーで鍵を受け取り、説明を聞き終えたころには、時計は二十二時を回っていた。外へ出ると、駅前の風が冷たく、ほほを軽く叩く。

 颯人は歩幅を合わせてくる。急がせない。優が信号で止まると、同じ場所で止まり、先に青を見ない。優はその癖に、少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。

 駅前の広場に近づいたとき、ギターの音が聞こえた。人だかりの向こうから、声が流れてくる。優の足が、勝手に止まった。

 「……史周」
 名前が、口から漏れた。声に出すつもりはなかったのに。

 路上の灯りの下で、史周が肩掛けのギターを鳴らしていた。帽子のつばを指で上げ、歌いながら、通り過ぎる人に小さく会釈する。その指先の動きが、妙に丁寧で、優は笑ってしまいそうになる。

 史周の歌は、今日の出来事と無関係なのに、なぜか胸の奥の固まりに触れてきた。
 「白い紙に書いた言葉は 夜でも消えない」
 それだけ聞こえたところで、優は目を伏せた。白いメモ。まだ机の上に残っている一行。

 颯人は、少し離れた場所で立ち止まっていた。声をかけようとして、タイミングを探しているのが背中で分かる。優は振り返り、手で小さく合図した。ここで待っていて、と。

 歌が終わると、史周は拍手に頭を下げ、ケースに入った小銭に目をやり、すぐにそれを閉じた。稼ぐための動きではない。終わったら帰る、という顔だ。

 優が近づくと、史周は驚いたように目を丸くした。
 「え、優? この時間に?」
 「仕事帰り。……歌、相変わらずだね」
 「相変わらずって、なにそれ。褒めてる? けなしてる?」
 「半分ずつ」
 史周は声を上げて笑い、笑いながら肩のストラップを直した。その途中で、優の後ろを見て、口を閉じる。

 「……そっちの人、誰?」
 優は振り返った。颯人が会釈をする。さっきラウンジで見た顔より、外の光では少しだけ若く見えた。
 「ホテルの……えっと」
 優は言葉に詰まった。契約の説明は、まだ口の中でうまく転がらない。
 颯人が一歩前に出て、先に名乗った。
 「颯人です。優さんに、助けてもらいました」

 助けてもらった。そう言われると、優の胸の奥の固まりが、少しだけほどける。優が言い訳ではなく事実として頷くと、史周は視線を優の手元へ落とし、何も言わずに笑った。

 「じゃ、俺は邪魔しない。優、帰り道、足元気をつけて。変な段差があるから」
 「ありがとう」
 史周は軽く手を振り、人混みの外へ消えた。気分で夜行バスに飛び乗るくせに、最後に必ず足元を心配する。そういうところが、昔から変わらない。

 優が颯人のところへ戻ると、颯人は問い詰めなかった。代わりに、さっきと同じ速度で歩き出す。
 「知り合いですか」
 「……はい。昔からの友達です」
 「そうですか」

 それだけで、颯人は余計な味を足さなかった。優は歩きながら、ノートの表紙を指でなぞる。三か月。期限がある形。なのに、今夜は少しだけ、息が通る。

 駅の改札の光が近づく。優は自分の足音が、さっきより軽いことに気づき、驚いた。

 「明日から、同居ですね」
 颯人が言った。
 優は頷き、喉の奥で小さく笑った。
 「冷蔵庫、勝手に整理しないようにします」
 颯人が、今度はちゃんと笑った。
 「整理したくなったら、相談してください。一緒にやります」

 優は、その返事をノートに書かなかった。書かなくても、消えない気がしたからだ。

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