ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第4話 ちほの指摘
火曜の十七時四十分。ムーンストーン洋菓子店の裏口は、焼き菓子の甘い湯気と、排気ダクトの生ぬるい風が混ざっていた。表のショーケースを磨き終えたちほが、軍手を外しながら振り返る。
「優、手、止まってる。泡立て器が泣いてるよ」
製造場の隅、ステンレスの作業台の上で、優はメレンゲのボウルを抱えたまま固まっていた。白い泡はきめ細かいのに、腕だけが妙に重い。三日前の深夜、湾岸のホテルで濡らした紙のこと。昨夜のラウンジで颯人に言われた、三か月という期限のこと。明日から同じ冷蔵庫を開ける、と言った自分の声のこと。
優は泡立て器を握り直し、手首だけで円を描いた。ちほはその動きを見て、眉を上げる。
「はいはい、その顔。何かあったね。言いなよ。今ならまだ、仕上げ前で修正きくから」
「……お菓子の話?」
「お菓子じゃないほう。だって、顔が死んでる」
ちほは容赦がない。優は笑ってごまかそうとして、口角だけが引きつった。ちほは棚から新品の紙コップを二つ取り、紙パックの牛乳を少し注いで、優の前に置いた。
「飲んで。胸の奥の砂、ちょっと流しな」
優は両手でコップを包んだ。冷たさが掌にじわりと染みる。背中に当たる排気の風が、少しだけましになった気がした。
「……同居することになったの」
「へえ。誰と」
「ミッドナイト・ムーンストーンの、颯人さんと」
「……あのホテルの、次の支配人って噂の?」
「噂かどうかは知らないけど、そういう立場みたい」
ちほは一拍も置かず、優の鼻先を指でつついた。
「顔が固い。恋か損得か、どっち?」
「ちほ、声、でかい」
「でかくするよ。だって、優の声が小さいんだもん」
優は何か反論したくて、でも言葉が見つからなくて、泡立て器を持つ手に力を入れた。泡が少しだけ立ちすぎる。慌てて力を抜くと、ちほが肩をすくめた。
「損得なら損得でいいよ。現実だし。でもさ、優が損得だけで家に入るときって、もっと手早い。段取り紙、今ここに貼ってるはず」
ちほは指で壁の仕込み表を叩いた。優は視線を逃がした。今朝五時に起きて、いつも通りチェックを入れた。なのに、昼からずっと、ひとマスずつずれている感じがする。
「……分かんない。まだ、決めきれてない」
「決めきれてないのに住むの?」
「店を守りたいの。家賃も、設備も……助けてもらえる」
「優は、助けてもらうの下手だよね」
ちほは笑いながら言った。優の胸がきゅっと縮む。否定できないからだ。
「助けてもらったら、返さなきゃって思う」
「返すのはいい。でも、返そうとして倒れたら、誰が困る?」
「……店の人」
「それと、相手も」
そのとき、裏口のチャイムが短く鳴った。表からではなく、従業員口のほう。ちほが「ほら来た」と言うように顎をしゃくる。
優が出ると、薄い雨の匂いが鼻をくすぐった。街灯の下に、颯人が立っていた。グレーのコートの腕に、ビニール袋がひとつ。中には、薄手の手袋と、紙に包まれた何か。
颯人は優を見つけると、目を合わせて、先に頭を下げた。
「お疲れさまです。忘れ物、これで合ってますか」
「……手袋。昨日、ラウンジで外して」
「拾ったのは裕喬です。僕は、届ける係でした」
言い方が妙に丁寧で、優は笑いそうになった。ちほが背後からにゅっと顔を出し、颯人を上から下まで見て、そして、優を見た。
「へえ。迎えに来るんだ」
「移動が一緒のほうが、時間を無駄にしないので」
「優、聞いた? 時間を無駄にしないって」
ちほは楽しそうに、わざとらしく頷く。優は耳まで熱くなり、咳払いした。
「ちほ、明日の納品数、確認して」
「はいはい。夫婦さん、気をつけてねー」
ちほは片手をひらひらさせ、わざと裏口の扉を閉めるときに、ガチャンと大きな音を立てた。優は肩をすくめ、颯人の方を見上げる。
「すみません。ああいう子で」
「助けてくれる人に見えます」
「……よく分かりましたね」
「優さんの手が、さっきより軽いから」
颯人はそれだけ言って、歩幅を合わせた。雨は降っていないのに、空気の湿り気が髪にまとわりつく。優は手袋を袋から出し、指を通した。自分の手の温度が、少しだけ戻る。
夜。ミッドナイト・ムーンストーンの最上階のスイートは、絨毯の匂いと、静けさで満ちていた。玄関からリビングまでの距離が、ムーンストーン洋菓子店の厨房より長い気がする。
「ここ……本当に、住む場所なんですか」
「今日は、住むために使います」
颯人の返事は真面目すぎて、優は喉の奥で笑った。笑った途端、緊張の糸が少しだけほどける。
キッチンに入ると、真っ白な皿が規則正しく並んでいた。触るのが怖い。優が手を引っ込めると、颯人が先に一枚持ち上げた。
「触ってください。割れたら、僕が弁償します」
「いや、私が……」
「今夜は、僕が言い出したことなので」
颯人は皿を一枚ずつ、優の手に渡した。指先に、ひやりとした重さが伝わる。優は受け取り、棚の一番下にそっと置いた。置いたつもりが、棚の扉がゆっくり自動で閉まり、最後に「す……」と小さく吸い込むように止まる。
「……今の、何ですか」
「静かに閉まる仕組みです。音が苦手な方がいるので」
優は頷いて、次の扉を閉めようとして、うっかり手を離した。扉は同じように静かに閉まった。優の肩が落ちる。こんなところでさえ、優の慌て方は浮くらしい。
「優さん、ここで決めませんか。生活の順番」
「順番?」
「朝の起きる時間、出る時間。買い物の担当。台所の使い方。——一気に全部は無理なので、今日は三つだけ」
颯人はテーブルに紙を置いた。ホテルのメモ用紙ではなく、優がいつも使っている罫線のノート。昨夜、優が条件を書き出したあのノートだ。持ってきていたのが、少し不思議で、少しだけ嬉しい。
優はペンを持ち、自然に字を書き始めた。
「一つめ。冷蔵庫の中を、勝手に動かさない」
「同意します」
「二つめ。外で食べてくる日は、十九時までに連絡」
「同意します。僕も、従業員食堂で済ませるときは伝えます」
「三つめ……」
優はペン先を止めた。ちほの声が頭に刺さる。恋か損得か、どっち。どっちでもない、と言うのは逃げだろうか。
颯人が急かさない。目だけで「待ちます」と言っている。
「三つめ。……ありがとうは、言う」
颯人の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それは、僕の得意分野です」
優は思わず吹き出し、すぐに口を押さえた。こんな広い部屋で笑うのが、場違いに思えたのだ。けれど颯人は、笑い声を責めるどころか、肩をすくめた。
「笑っても大丈夫です。ここ、僕の家の顔じゃなくて、僕の生活の場所なので」
「……今日からは、私も、ですか」
「はい。無理に慣れなくていい。慣れないところは、言ってください。直せることは直します」
優は「直せる」と聞いて、胸が少しだけ熱くなった。誰かと暮らすことは、耐えることだと思っていた。耐えれば、いつか終わる。そういうものだと。
キッチンの流し台に、白いタオルが二枚置かれている。優が手を伸ばすと、颯人が先に一枚を取って、優の手を拭くように差し出した。
「今日、手が冷えたでしょう」
「……気づいてました?」
「手袋を渡すとき、指先が白かった」
優はタオルを受け取り、指を包んだ。柔らかい。店のタオルとは違う。なのに、温度が伝わるのは同じだ。
その夜、優は寝室の端に小さな机を見つけ、ノートパソコンを開いた。匿名のブログに、タイトルだけを書いた。
「何気ない日常を淡々と描いた物語」
今日の出来事は、淡々とは書けないかもしれない。けれど、泡立て器を握り直した指先の感触と、静かに閉まる扉の音と、タオルの柔らかさは、ちゃんと残しておきたかった。
投稿ボタンを押す前に、優はリビングを覗いた。颯人はソファの端に座り、明日の予定を紙に書き出している。ペンが止まるたび、窓の外の湾岸の灯りが、彼の横顔を薄く照らす。
優は画面を閉じた。今夜は、書かなくていい。消えない気がしたからだ。
「優、手、止まってる。泡立て器が泣いてるよ」
製造場の隅、ステンレスの作業台の上で、優はメレンゲのボウルを抱えたまま固まっていた。白い泡はきめ細かいのに、腕だけが妙に重い。三日前の深夜、湾岸のホテルで濡らした紙のこと。昨夜のラウンジで颯人に言われた、三か月という期限のこと。明日から同じ冷蔵庫を開ける、と言った自分の声のこと。
優は泡立て器を握り直し、手首だけで円を描いた。ちほはその動きを見て、眉を上げる。
「はいはい、その顔。何かあったね。言いなよ。今ならまだ、仕上げ前で修正きくから」
「……お菓子の話?」
「お菓子じゃないほう。だって、顔が死んでる」
ちほは容赦がない。優は笑ってごまかそうとして、口角だけが引きつった。ちほは棚から新品の紙コップを二つ取り、紙パックの牛乳を少し注いで、優の前に置いた。
「飲んで。胸の奥の砂、ちょっと流しな」
優は両手でコップを包んだ。冷たさが掌にじわりと染みる。背中に当たる排気の風が、少しだけましになった気がした。
「……同居することになったの」
「へえ。誰と」
「ミッドナイト・ムーンストーンの、颯人さんと」
「……あのホテルの、次の支配人って噂の?」
「噂かどうかは知らないけど、そういう立場みたい」
ちほは一拍も置かず、優の鼻先を指でつついた。
「顔が固い。恋か損得か、どっち?」
「ちほ、声、でかい」
「でかくするよ。だって、優の声が小さいんだもん」
優は何か反論したくて、でも言葉が見つからなくて、泡立て器を持つ手に力を入れた。泡が少しだけ立ちすぎる。慌てて力を抜くと、ちほが肩をすくめた。
「損得なら損得でいいよ。現実だし。でもさ、優が損得だけで家に入るときって、もっと手早い。段取り紙、今ここに貼ってるはず」
ちほは指で壁の仕込み表を叩いた。優は視線を逃がした。今朝五時に起きて、いつも通りチェックを入れた。なのに、昼からずっと、ひとマスずつずれている感じがする。
「……分かんない。まだ、決めきれてない」
「決めきれてないのに住むの?」
「店を守りたいの。家賃も、設備も……助けてもらえる」
「優は、助けてもらうの下手だよね」
ちほは笑いながら言った。優の胸がきゅっと縮む。否定できないからだ。
「助けてもらったら、返さなきゃって思う」
「返すのはいい。でも、返そうとして倒れたら、誰が困る?」
「……店の人」
「それと、相手も」
そのとき、裏口のチャイムが短く鳴った。表からではなく、従業員口のほう。ちほが「ほら来た」と言うように顎をしゃくる。
優が出ると、薄い雨の匂いが鼻をくすぐった。街灯の下に、颯人が立っていた。グレーのコートの腕に、ビニール袋がひとつ。中には、薄手の手袋と、紙に包まれた何か。
颯人は優を見つけると、目を合わせて、先に頭を下げた。
「お疲れさまです。忘れ物、これで合ってますか」
「……手袋。昨日、ラウンジで外して」
「拾ったのは裕喬です。僕は、届ける係でした」
言い方が妙に丁寧で、優は笑いそうになった。ちほが背後からにゅっと顔を出し、颯人を上から下まで見て、そして、優を見た。
「へえ。迎えに来るんだ」
「移動が一緒のほうが、時間を無駄にしないので」
「優、聞いた? 時間を無駄にしないって」
ちほは楽しそうに、わざとらしく頷く。優は耳まで熱くなり、咳払いした。
「ちほ、明日の納品数、確認して」
「はいはい。夫婦さん、気をつけてねー」
ちほは片手をひらひらさせ、わざと裏口の扉を閉めるときに、ガチャンと大きな音を立てた。優は肩をすくめ、颯人の方を見上げる。
「すみません。ああいう子で」
「助けてくれる人に見えます」
「……よく分かりましたね」
「優さんの手が、さっきより軽いから」
颯人はそれだけ言って、歩幅を合わせた。雨は降っていないのに、空気の湿り気が髪にまとわりつく。優は手袋を袋から出し、指を通した。自分の手の温度が、少しだけ戻る。
夜。ミッドナイト・ムーンストーンの最上階のスイートは、絨毯の匂いと、静けさで満ちていた。玄関からリビングまでの距離が、ムーンストーン洋菓子店の厨房より長い気がする。
「ここ……本当に、住む場所なんですか」
「今日は、住むために使います」
颯人の返事は真面目すぎて、優は喉の奥で笑った。笑った途端、緊張の糸が少しだけほどける。
キッチンに入ると、真っ白な皿が規則正しく並んでいた。触るのが怖い。優が手を引っ込めると、颯人が先に一枚持ち上げた。
「触ってください。割れたら、僕が弁償します」
「いや、私が……」
「今夜は、僕が言い出したことなので」
颯人は皿を一枚ずつ、優の手に渡した。指先に、ひやりとした重さが伝わる。優は受け取り、棚の一番下にそっと置いた。置いたつもりが、棚の扉がゆっくり自動で閉まり、最後に「す……」と小さく吸い込むように止まる。
「……今の、何ですか」
「静かに閉まる仕組みです。音が苦手な方がいるので」
優は頷いて、次の扉を閉めようとして、うっかり手を離した。扉は同じように静かに閉まった。優の肩が落ちる。こんなところでさえ、優の慌て方は浮くらしい。
「優さん、ここで決めませんか。生活の順番」
「順番?」
「朝の起きる時間、出る時間。買い物の担当。台所の使い方。——一気に全部は無理なので、今日は三つだけ」
颯人はテーブルに紙を置いた。ホテルのメモ用紙ではなく、優がいつも使っている罫線のノート。昨夜、優が条件を書き出したあのノートだ。持ってきていたのが、少し不思議で、少しだけ嬉しい。
優はペンを持ち、自然に字を書き始めた。
「一つめ。冷蔵庫の中を、勝手に動かさない」
「同意します」
「二つめ。外で食べてくる日は、十九時までに連絡」
「同意します。僕も、従業員食堂で済ませるときは伝えます」
「三つめ……」
優はペン先を止めた。ちほの声が頭に刺さる。恋か損得か、どっち。どっちでもない、と言うのは逃げだろうか。
颯人が急かさない。目だけで「待ちます」と言っている。
「三つめ。……ありがとうは、言う」
颯人の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それは、僕の得意分野です」
優は思わず吹き出し、すぐに口を押さえた。こんな広い部屋で笑うのが、場違いに思えたのだ。けれど颯人は、笑い声を責めるどころか、肩をすくめた。
「笑っても大丈夫です。ここ、僕の家の顔じゃなくて、僕の生活の場所なので」
「……今日からは、私も、ですか」
「はい。無理に慣れなくていい。慣れないところは、言ってください。直せることは直します」
優は「直せる」と聞いて、胸が少しだけ熱くなった。誰かと暮らすことは、耐えることだと思っていた。耐えれば、いつか終わる。そういうものだと。
キッチンの流し台に、白いタオルが二枚置かれている。優が手を伸ばすと、颯人が先に一枚を取って、優の手を拭くように差し出した。
「今日、手が冷えたでしょう」
「……気づいてました?」
「手袋を渡すとき、指先が白かった」
優はタオルを受け取り、指を包んだ。柔らかい。店のタオルとは違う。なのに、温度が伝わるのは同じだ。
その夜、優は寝室の端に小さな机を見つけ、ノートパソコンを開いた。匿名のブログに、タイトルだけを書いた。
「何気ない日常を淡々と描いた物語」
今日の出来事は、淡々とは書けないかもしれない。けれど、泡立て器を握り直した指先の感触と、静かに閉まる扉の音と、タオルの柔らかさは、ちゃんと残しておきたかった。
投稿ボタンを押す前に、優はリビングを覗いた。颯人はソファの端に座り、明日の予定を紙に書き出している。ペンが止まるたび、窓の外の湾岸の灯りが、彼の横顔を薄く照らす。
優は画面を閉じた。今夜は、書かなくていい。消えない気がしたからだ。

