ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第5話 同じ冷蔵庫を開ける

 水曜の朝六時。ミッドナイト・ムーンストーンの高い窓は、まだ夜を少しだけ握ったまま、薄い群青を室内へ落としていた。

 優はベッドの縁に座り、靴下を引き上げる。いつもの時間だ。隣の部屋の気配を起こさないように、足音を消す癖が勝手に働く。菓子店の寮で、早番の先輩を起こさないようにしてきた癖だ。

 キッチンの明かりを点けず、冷蔵庫の扉だけを開けた。白い光が、優の指先と頬をひんやり照らす。

 中には、ミネラルウォーターと、ヨーグルトと、卵が少し。葉物野菜と、チーズ。ホテルらしい整った並びで、余計な匂いがしない。

 優は、棚の空白に目を留めた。
 アーモンドプードルも、粉糖も、乾いた匂いのする小袋もない。

 「……足りない」

 声が、思ったよりはっきり出た。優は慌てて口を手で押さえる。静かだ。部屋は静かだ。けれど胸の中は、もう仕込み台の前へ走り出している。

 買い出しに行こう。今なら、開店前に戻れる。
 頭がそう決めた瞬間、身体が動く。優は冷蔵庫を閉め、台の上へメモ用紙を置いた。砂糖、粉糖、アーモンド――と書きかけて、ペン先が止まる。

 ここは、優の台所じゃない。

 自分で決めて、自分で走って、自分で責任を背負う。そのやり方だけで、店を守ってきた。けれど、今は三か月だけ、ふたりで同じ屋根の下だ。扉を一枚隔てた向こうに、颯人がいる。

 優はペンを置き、代わりに小さな付箋を一枚、冷蔵庫の横へ貼った。
 『買い出し行っていい? 優』
 それだけでは、子どもみたいに見えるかもしれない。けれど、今の優には、それが一番の誠実だった。

 背後で、床がきしむ音がした。

 「早いですね」

 低い声。振り向くと、颯人がドアの影から出てきた。スーツではなく、白いシャツのまま。ネクタイを締める前の、少しだけ人の体温が近い姿だった。

 優は付箋を指さし、言い訳の順番を探す。
 「材料が、あまり……。店の仕込みもあるので、今なら――」

 颯人は付箋を読んで、ふっと息を抜いた。
 「買い出しに行きたいんですね。……行く前に、今日の予定、確認していいですか」

 確認、という言葉が柔らかいのに、優の背筋が伸びる。叱られる準備をしてしまう。けれど颯人は、叱る顔をしていなかった。机の上の手帳を開き、指で時間をなぞる。

 「優さん、七時半に店へ。十時半にホテルへは来ない。今日は、夜も来なくていい。……合ってますか」
 「はい。店だけです」

 颯人は頷いて、手帳を閉じた。
 「じゃあ、今日は無理をしない日にしましょう。買い出しは、帰り道で。今から走ると、優さんが息を切らす」

 優は口を開けたまま、言葉が出なかった。
 息を切らす。そんなことを、誰かに止められたのは久しぶりだった。

 「でも、材料が……」
 「店の材料ですか。それとも、ここで使う分ですか」
 「……ここ、です」

 優は視線を落とした。冷蔵庫の中身を勝手に増やすのが、怖かったのだ。贅沢をしているように見えるのも。誰かの家に土足で入り込むみたいなのも。

 颯人は冷蔵庫を開け、棚を一段ずつ確かめた。整った並びを崩さないように、指先だけで。
 「この冷蔵庫、ふたりで使うなら、ルールが要りますね」

 優は反射で頷いた。ルールなら、決められる。手順なら、守れる。
 その安心が顔に出たのか、颯人は少し笑った。

 「まず、共有の段を作りましょう。水、卵、牛乳……調味料も。優さんの菓子用の材料は、優さんの段。私のものは、私の段」
 「……段。はい」

 優は引き出しから、マスキングテープを出した。いつ買ったのか覚えていない、淡いラベンダー色の幅広テープだ。指でちぎり、棚の縁へ貼ろうとする。

 「待ってください」
 颯人が手を伸ばした。優の手首を掴むのではなく、テープの端だけをそっと押さえる。
 「貼る場所、ここだと剥がれます。結露が出るので」
 「……結露」

 優は一度だけ瞬きをし、負けた、という顔をした。
 颯人はペンを取り、「共有」「優」「颯人」と書き始めた。文字がやけに丁寧で、ホテルの案内板みたいだった。

 優は思わず笑いそうになって、喉で止めた。笑っていいのか分からない。颯人の顔が、紙に近い距離で真剣だったからだ。

 「字、きれいですね」
 「ありがとうございます。……あ、言いましたね」

 颯人がペンを置き、こちらを見る。優は首を傾げる。
 「何を、ですか」
 「ありがとう。届きました」

 胸の奥が、少しだけ温かくなった。感謝は言葉にしないと届かない。昨夜、画面を閉じたあとも、頭の片隅に残っていた言葉が、いま指先のすぐ近くへ降りてきた。

 優は、改めて息を整えた。
 「……ありがとうございます。止めてくれて」
 「こちらこそ。優さんが、付箋で聞いてくれて、助かりました」

 ふたりで冷蔵庫の扉を閉める。小さな音がして、日常の蓋がきちんと嵌まる。

 そのまま、キッチンに並べた小さな買い物かごを見て、優は言った。
 「帰り道で、砂糖と粉糖だけ買ってきます。走らないで」
 「それなら、賛成です」

 颯人は時計を見て、シャツの袖口を整えた。優もエプロンの代わりに、薄いカーディガンを羽織る。ふたりの朝が、同じ動きで少しだけ重なる。

 ――夜。

 二十一時すぎ。店から戻った優が、共有の段へ卵を補充していると、インターホンが鳴った。

 画面に映ったのは、濡れた髪をタオルで巻いた女性だった。肩から湯気が出そうなくらい、顔がつやつやしている。

 「こんばんは。七夕です」

 優が扉を開けると、七夕はスパの紙袋を揺らして入ってきた。靴を揃える手つきが速い。足元に、運動靴の紐がきちんと結ばれている。

 「これ。お湯飲んだあとの水分。あと、ナッツ。噛むと落ち着く」
 七夕はそう言って、透明な水筒と小袋をテーブルへ置いた。

 優は受け取って、言葉に迷った。親切の受け取り方も、まだ下手だ。
 「……ありがとうございます」
 「うん。元気でいてほしいから」

 七夕はさらりと言い、冷蔵庫の前へ行った。扉を開け、テープの札を見て、眉を上げる。
 「共有、優、颯人……。几帳面すぎて逆にかわいい」
 「かわ……」

 優が返す前に、背後から颯人が出てきた。
 「七夕、遅くまでどうした」
 「スパが空いてた。あと、優さんが倒れたら困るでしょ。甘いもの作る人、寝不足になるから」

 七夕はそう言いながら、共有の段へ水筒を置き、優の段へナッツを置いた。置き場所まで決めてしまうのが早い。

 優は苦笑して、ナッツの袋を指で押さえた。
 「これは……私の、ですか」
 「うん。粉糖の前に、これ。血の巡り、だいじ」

 意味がすべて分かったわけではない。それでも、胸がほっとした。気を遣っているのに、重くない。命令でもない。優の体を、ただ大事に扱っている。

 七夕は踵を返し、玄関へ向かった。
 「じゃ、また。明日も開けるでしょ。同じ冷蔵庫」

 扉が閉まる音が、昨日よりも柔らかく聞こえた。

 優は水筒を握り、冷蔵庫の札をもう一度見た。共有の段。優の段。颯人の段。
 線を引いただけなのに、ひとりで抱え込む場所が少し減った気がした。

 その夜、優は匿名の画面を開いた。
 『同じ冷蔵庫を開ける。今日は、走らなかった。ありがとうと言えた。』
 それだけ書いて、保存した。淡々と、でいい。今の優には、それがちゃんと前に進む記録だった。

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