ラベンダーミストムーンストーンの花嫁
第6話 自由人の手土産
木曜の二十一時十分。ミッドナイト・ムーンストーンの従業員通路は、表のロビーとは別の空気が流れていた。カートの車輪が遠くで転がる音と、洗剤の匂い。白い蛍光灯が床の線をくっきり照らし、優の足元だけが妙に落ち着かなかった。
優の腕には、小さな紙袋がぶら下がっていた。中身は、店で余ったサブレを十枚ほど。夜勤の清掃チームに「昨日、助けてもらったので」と渡すつもりで持ってきた。豪華な箱は似合わないし、きれいな言い回しも浮かばない。それでも、手ぶらで通り過ぎるのは違う気がした。
ただ、裏口から入って通路を曲がった瞬間、方向感覚がほどけた。右へ行けばリネン庫、左へ行けば搬入口。覚えたはずの文字が、どれも同じに見える。紙袋の底に指が食い込み、優は小さく息を吐いた。
優は胸の前でカードキーを握っていた。今日は菓子店の仕込みを終えたあと、ホテルへ届け物を頼まれ、裏口から入った。手順は覚えたはずなのに、通路の曲がり角が同じに見える。自分の段取りの悪さに、喉の奥がきゅっと縮む。
「……優、背中、丸い」
声がした。優は反射で振り向き、手にしていたカードキーを落としそうになる。
壁の影から、史周がひょい、と顔を出した。帽子のつばを上げ、片方の肩にリュック。さっきまで路上にいたみたいに、指先が少し冷えている。
「ここ、入れないはずだよね」
優は小声で言った。ここは従業員しか通らない。制服でもない優が立っているだけで目立つのに、史周は平気でいる。
史周は「へへ」と笑い、胸ポケットから何かを取り出した。
小さな輪っか。そこに、丸い透明のケースがぶら下がっている。中には、金色の小さな月と、ラベンダー色のビーズ。それだけなら可愛いのに、史周が指で押すと――
「ぴっ」
甲高い電子音が、通路の端までまっすぐ飛んだ。
優は思わず口元を押さえた。笑いが漏れそうで、息が詰まる。こんな場所で鳴らしたら、誰かが振り向く。
史周は肩をすくめる。
「鍵、どこに置いたか分かんなくなるだろ。音が出たら探せる」
「探せるけど、今みたいに、怒られ……」
「怒られる前に、笑えばいい」
史周はあっさり言って、優の手のひらにそれを乗せた。体温が移る。ケースの中で月が少し揺れて、ラベンダー色の粒がきらっと光った。
優は押さえていた笑いを、とうとうこぼした。
「……音が、まぬけ」
「まぬけでいい。優、最近、顔が固い」
史周は、まっすぐ言う。遠回しにしないのに、刺さらない。昔からそうだ。
「どこで買ったの」
「夜行バスの休憩所。ガチャがあってさ。小銭なくて、弾き語りで稼いだ分、全部使った」
「全部?」
「全部。だって、優が困ってるって聞いたから」
聞いた、という言い方が引っかかった。優が眉を寄せた瞬間、史周は視線を斜めに逸らす。
「……七夕がさ。スパの休憩室で、優がカードキー落としそうになってたって」
「見られてたの……」
「見られてたっていうか、心配されてた。水筒とナッツの人は、そーいうの強い」
優は思い出してしまう。昨日の夜、七夕がスイートに顔を出し、玄関に水筒を置いていったこと。あの人はいつも、先に元気を渡してしまう。
「史周、ホテルの人に見つかったら……」
「見つかったら、俺が全部言うよ。『優に用事がありました』って。あとは、出てく」
史周は軽く笑い、でも手のひらを握りしめる力だけが少し強い。自分の予定を空っぽにして、誰かの前に立つ。そういう人だ。
そのとき、通路の奥で足音が止まった。
優は息を飲み、史周も音の出るキーホルダーを慌ててポケットに隠す。
蛍光灯の下に、颯人が立っていた。
スーツの上着を腕にかけ、白いシャツの袖を少しまくっている。仕事の途中で通路を通ったのだろう。視線が優と史周を見比べ、迷うように一拍止まった。
優は胸の中で、泡立て器が落ちる音を想像した。説明しなきゃ。けれど舌が固まる。
先に口を開いたのは史周だった。
「こんばんは。通路、迷いました」
「……ここは迷う場所ではありません」
颯人の声は冷たいはずなのに、言い切る前に少しだけ緩んだ。
優が堪えきれず、また小さく笑ってしまったからだ。
さっきの「ぴっ」が頭の中で反響して、史周の「笑えばいい」が妙に効いている。
颯人の目が、驚いたように細くなる。
優の笑い声を、正面から聞くのは初めてだった。
颯人は一度、深く息を吐いた。肩が、ほんの少し下がる。いつも資料と現場を確認してから動く颯人が、今だけは確認を忘れたみたいに、ぽかんとした顔をした。
「……優さん」
呼び方が、いつもより柔らかい。優はカードキーを握り直し、説明の順番を頭の中で並べた。
「私、届け物で……それで、史周は、えっと……」
史周が横から、さらっと言う。
「手土産。渡しに来ただけ。変な音のやつ」
「変な音……?」
颯人が問い返した瞬間、史周はわざとらしく肩を落とした。
「優、ここで押すなよ。絶対押すなよ」
その言い方が、優の笑いをまた誘う。押すなと言われると押したくなる自分が、悔しい。
優は首を横に振りながら、手のひらの中のキーホルダーを颯人に見せた。透明のケースの中で、月が揺れる。
「鍵を落としそうになったので……音が出ると探せるって」
颯人はそれを見て、目元だけで笑った。
「実用的ですね。……音は、控えめにお願いします」
「はい」
優は、真面目に返事をしたのに、笑いが止まらない。口元が勝手に上がってしまう。
颯人は史周へ向き直った。
「優さんに、ありがとうございます。……ただ、次は表から来てください」
「表から来たら、止められる」
「止めます」
颯人は即答した。史周が「だよな」と笑い、両手を上げる。
「じゃ、俺は帰る。優、鍵、落とすな。落としたら、『ぴっ』ってやれ」
「やらない」
「やる日が来る」
史周は軽く手を振り、通路の曲がり角へ歩き出した。最後に、足元をちらりと見て、優の前の床の段差を指で示す。
「ここ、つまずく。気をつけて」
史周の背中が消えたあと、通路の音が元に戻った。カートの車輪、遠い水音。
優は手の中のキーホルダーを見つめた。まぬけな音。けれど、胸の固まりをほどく音。
颯人が、優の隣へ歩幅を合わせた。
「……笑っているところ、初めて聞きました」
優は指先でケースの月を揺らし、目を伏せた。
「変でしたか」
「変ではないです。……安心しました」
颯人は相手の目を見る癖があるのに、今だけは壁の掲示を見ていた。照れているのが分かって、優はまた笑う。
「史周、迷惑じゃありませんか」
「迷惑ではないです。人は、支えられていい」
颯人は言葉を選びながら、でも逃げずに言った。
「……私も、支えられています」
優の胸が、少しだけ温かくなる。豪華な贈り物ではなく、夜の通路で鳴りかけた小さな音と、誰かの心配と、いまの一言で。
部屋へ戻ってから、優は匿名の画面を開いた。
『今日は、ちゃんと笑った。』
それだけ打って、保存した。短い一文でも、確かに届く日がある。
優の腕には、小さな紙袋がぶら下がっていた。中身は、店で余ったサブレを十枚ほど。夜勤の清掃チームに「昨日、助けてもらったので」と渡すつもりで持ってきた。豪華な箱は似合わないし、きれいな言い回しも浮かばない。それでも、手ぶらで通り過ぎるのは違う気がした。
ただ、裏口から入って通路を曲がった瞬間、方向感覚がほどけた。右へ行けばリネン庫、左へ行けば搬入口。覚えたはずの文字が、どれも同じに見える。紙袋の底に指が食い込み、優は小さく息を吐いた。
優は胸の前でカードキーを握っていた。今日は菓子店の仕込みを終えたあと、ホテルへ届け物を頼まれ、裏口から入った。手順は覚えたはずなのに、通路の曲がり角が同じに見える。自分の段取りの悪さに、喉の奥がきゅっと縮む。
「……優、背中、丸い」
声がした。優は反射で振り向き、手にしていたカードキーを落としそうになる。
壁の影から、史周がひょい、と顔を出した。帽子のつばを上げ、片方の肩にリュック。さっきまで路上にいたみたいに、指先が少し冷えている。
「ここ、入れないはずだよね」
優は小声で言った。ここは従業員しか通らない。制服でもない優が立っているだけで目立つのに、史周は平気でいる。
史周は「へへ」と笑い、胸ポケットから何かを取り出した。
小さな輪っか。そこに、丸い透明のケースがぶら下がっている。中には、金色の小さな月と、ラベンダー色のビーズ。それだけなら可愛いのに、史周が指で押すと――
「ぴっ」
甲高い電子音が、通路の端までまっすぐ飛んだ。
優は思わず口元を押さえた。笑いが漏れそうで、息が詰まる。こんな場所で鳴らしたら、誰かが振り向く。
史周は肩をすくめる。
「鍵、どこに置いたか分かんなくなるだろ。音が出たら探せる」
「探せるけど、今みたいに、怒られ……」
「怒られる前に、笑えばいい」
史周はあっさり言って、優の手のひらにそれを乗せた。体温が移る。ケースの中で月が少し揺れて、ラベンダー色の粒がきらっと光った。
優は押さえていた笑いを、とうとうこぼした。
「……音が、まぬけ」
「まぬけでいい。優、最近、顔が固い」
史周は、まっすぐ言う。遠回しにしないのに、刺さらない。昔からそうだ。
「どこで買ったの」
「夜行バスの休憩所。ガチャがあってさ。小銭なくて、弾き語りで稼いだ分、全部使った」
「全部?」
「全部。だって、優が困ってるって聞いたから」
聞いた、という言い方が引っかかった。優が眉を寄せた瞬間、史周は視線を斜めに逸らす。
「……七夕がさ。スパの休憩室で、優がカードキー落としそうになってたって」
「見られてたの……」
「見られてたっていうか、心配されてた。水筒とナッツの人は、そーいうの強い」
優は思い出してしまう。昨日の夜、七夕がスイートに顔を出し、玄関に水筒を置いていったこと。あの人はいつも、先に元気を渡してしまう。
「史周、ホテルの人に見つかったら……」
「見つかったら、俺が全部言うよ。『優に用事がありました』って。あとは、出てく」
史周は軽く笑い、でも手のひらを握りしめる力だけが少し強い。自分の予定を空っぽにして、誰かの前に立つ。そういう人だ。
そのとき、通路の奥で足音が止まった。
優は息を飲み、史周も音の出るキーホルダーを慌ててポケットに隠す。
蛍光灯の下に、颯人が立っていた。
スーツの上着を腕にかけ、白いシャツの袖を少しまくっている。仕事の途中で通路を通ったのだろう。視線が優と史周を見比べ、迷うように一拍止まった。
優は胸の中で、泡立て器が落ちる音を想像した。説明しなきゃ。けれど舌が固まる。
先に口を開いたのは史周だった。
「こんばんは。通路、迷いました」
「……ここは迷う場所ではありません」
颯人の声は冷たいはずなのに、言い切る前に少しだけ緩んだ。
優が堪えきれず、また小さく笑ってしまったからだ。
さっきの「ぴっ」が頭の中で反響して、史周の「笑えばいい」が妙に効いている。
颯人の目が、驚いたように細くなる。
優の笑い声を、正面から聞くのは初めてだった。
颯人は一度、深く息を吐いた。肩が、ほんの少し下がる。いつも資料と現場を確認してから動く颯人が、今だけは確認を忘れたみたいに、ぽかんとした顔をした。
「……優さん」
呼び方が、いつもより柔らかい。優はカードキーを握り直し、説明の順番を頭の中で並べた。
「私、届け物で……それで、史周は、えっと……」
史周が横から、さらっと言う。
「手土産。渡しに来ただけ。変な音のやつ」
「変な音……?」
颯人が問い返した瞬間、史周はわざとらしく肩を落とした。
「優、ここで押すなよ。絶対押すなよ」
その言い方が、優の笑いをまた誘う。押すなと言われると押したくなる自分が、悔しい。
優は首を横に振りながら、手のひらの中のキーホルダーを颯人に見せた。透明のケースの中で、月が揺れる。
「鍵を落としそうになったので……音が出ると探せるって」
颯人はそれを見て、目元だけで笑った。
「実用的ですね。……音は、控えめにお願いします」
「はい」
優は、真面目に返事をしたのに、笑いが止まらない。口元が勝手に上がってしまう。
颯人は史周へ向き直った。
「優さんに、ありがとうございます。……ただ、次は表から来てください」
「表から来たら、止められる」
「止めます」
颯人は即答した。史周が「だよな」と笑い、両手を上げる。
「じゃ、俺は帰る。優、鍵、落とすな。落としたら、『ぴっ』ってやれ」
「やらない」
「やる日が来る」
史周は軽く手を振り、通路の曲がり角へ歩き出した。最後に、足元をちらりと見て、優の前の床の段差を指で示す。
「ここ、つまずく。気をつけて」
史周の背中が消えたあと、通路の音が元に戻った。カートの車輪、遠い水音。
優は手の中のキーホルダーを見つめた。まぬけな音。けれど、胸の固まりをほどく音。
颯人が、優の隣へ歩幅を合わせた。
「……笑っているところ、初めて聞きました」
優は指先でケースの月を揺らし、目を伏せた。
「変でしたか」
「変ではないです。……安心しました」
颯人は相手の目を見る癖があるのに、今だけは壁の掲示を見ていた。照れているのが分かって、優はまた笑う。
「史周、迷惑じゃありませんか」
「迷惑ではないです。人は、支えられていい」
颯人は言葉を選びながら、でも逃げずに言った。
「……私も、支えられています」
優の胸が、少しだけ温かくなる。豪華な贈り物ではなく、夜の通路で鳴りかけた小さな音と、誰かの心配と、いまの一言で。
部屋へ戻ってから、優は匿名の画面を開いた。
『今日は、ちゃんと笑った。』
それだけ打って、保存した。短い一文でも、確かに届く日がある。