ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第7話 初めての会食

 金曜の十八時半。ミッドナイト・ムーンストーンの最上階へ向かうエレベーターは、鏡みたいに磨かれていた。優は自分の口角が落ちないように意識して、背筋を伸ばす。胸の内側だけが、まだ朝の仕込み台の上に取り残されているみたいに、そわそわしていた。

 「息、浅くなってます」
 颯人が、声を小さくして言った。優の正面ではなく、鏡越しに目を合わせてくる。真正面から見つめられるより、逃げ道があって助かった。
 「……分かります?」
 「分かります。歩幅が半分になってる」

 言い方が変に具体的で、優は思わず笑いそうになる。笑うと肩が揺れてしまうから、代わりに、指先で小さくスカートの縫い目をなぞった。縫い目は、いつもと同じ。いつもと同じなら、今日もなんとかなる。

 案内された個室は、壁一面の窓から湾岸の夜景が見えた。波のない海に、街の灯りが細く溶けている。テーブルには白いクロス、銀色のナイフとフォーク、ガラスの器。どれもきれいすぎて、触れる前から音が出そうだった。

 先に座っていたのは三人だった。背筋の伸びた男性がひとり、淡い色のジャケットを着た女性がひとり、そして年配の女性がひとり。優が扉をくぐった瞬間、視線が同じ角度で刺さる。熱いわけじゃないのに、肌がじりっとした。

 「遅くなりました」
 颯人が丁寧に頭を下げ、優にも目で合図をくれた。
 「優です。本日は、お時間をいただき……ありがとうございます」

 声が上ずらないように息を整えたつもりなのに、最後の「ございます」が少しだけ薄くなった気がする。年配の女性が、グラスの縁を指でなぞってから言った。
 「……洋菓子店、でしたわね」
 「はい。下町の小さな店です」

 背筋を丸めないように気をつける。うまく言えないときは、余計な言葉を足さない。今日の優は、泡立て器を握っているわけではないから、口で泡を立てても意味がない。

 前菜が運ばれてきた。白い皿の中央に、小さな海老と柑橘のソース。湯気はないのに、香りは立っている。優はナイフを持とうとして、指先がわずかに震えた。金属が指の熱を奪い、手の中で重さが増えた気がした。

 右手、左手。順番は頭で知っている。けれど、頭で知っていることと、手が動くことは別だ。
 優が刃先の角度を探していると、颯人が自分のフォークを置き、さりげなくパン皿を寄せた。
 「先に、パンどうぞ」
 「……ありがとうございます」

 パンなら、ちぎればいい。ナイフの出番が遅れても、不自然にはならない。優は指先で温かい生地を割り、香りを吸った。小麦の甘さの奥に、ほんの少し焦がしバターがいる。

 「香りが、いいです」
 口に出した瞬間、視線がまた集まった。だからと言って引っ込めない。優は、笑って誤魔化さない代わりに、続けた。
 「……焼き色が浅いのに、バターの匂いが前に来てます。たぶん、こねるときの温度が低いんだと思います」

 自分で言って、しまったと思う。家の食卓で「温度が」と言う人間は、たぶん少ない。けれど年配の女性は、鼻先を少しだけ動かした。
 「……詳しいのね」
 「毎朝、同じ匂いを嗅いでいるので」

 それだけ言って、優は口を閉じた。嘘はない。盛りすぎた言葉もない。胸の奥の震えだけが、まだ残っている。

 主菜は、白身魚のポワレだった。皿の縁に、淡い紫のソースが細く引かれている。ラベンダーのような色に、優の目が止まった。
 「この色、きれいです」
 言ってしまってから、また視線が集まった。でも、今日の優は逃げない。
 「花の香りが……少し、します。強くないのに、ふっと残る感じです」

 颯人の父らしい男性が、初めて表情を動かした。口元がわずかに上がるでもなく、眉が上がるでもなく、ただ、目の焦点が優へ合った。
 「香りで分かるのか」
 「分かる、というより……分からないと困るんです。焼き菓子って、匂いで失敗が先に出るので」

 年配の女性が、スプーンを置いた。
 「あなたの家は、どういう家なの」
 問いが、皿より固い。優は喉の奥が乾くのを感じた。けれど、答えは用意していないほうがいい気がした。用意した言葉は、紙みたいに濡れて破れる。
 「家は……普通です。母が働いていて、私は、店の手伝いから始めました」
 「学歴は」
 優は一瞬だけ、目の前のソースを見た。紫の線が、まっすぐ引かれている。まっすぐは、嘘をつかない。
 「専門学校を出ました。製菓の」

 気まずい沈黙が落ちる前に、颯人が水を一口飲んでから口を開いた。
 「優は、店の材料管理と製造を任せられています。現場で、私が一番信頼したいのは、数字と手です。彼女は両方を持っている」

 “家柄”という言葉を、颯人は出さない。出さない代わりに、別のものを差し出す。優はその横顔を見て、胸の奥で、小さく何かがほどけた。

 会食は、味だけは最後まで丁寧だった。けれど視線の温度は変わらない。食後の小さな菓子が出たとき、年配の女性が言った。
 「……あなたが作るの。あのマカロン」
 「はい。毎朝、仕込みます」
 「季節の味は」
 「いまは、柚子と、塩キャラメルです」

 聞かれたことにだけ答える。余計に飾らない。優の手の震えは、いつの間にか止まっていた。その代わり、背中の筋肉が硬い。笑っても、今日はほぐれない。

 部屋を出て廊下に出た瞬間、空調の冷気が頬に刺さった。優はやっと息を吐く。颯人が隣で歩幅を合わせる。
 「……すみません」
 優が言いかけたところで、颯人が首を横に振った。
 「謝らないでください。今日の場を作ったのは、私です」

 ホテルの車に乗り込み、時計が二十一時十分を過ぎたころ。窓の外は、街の灯りが流れていく。優は自分の膝の上に手を置いて、指の関節を一つずつ伸ばした。
 颯人が、前を見たまま低い声で言った。
 「無理をさせました。……本当に、すみません」

 謝られると、優はいつも「大丈夫です」と言ってしまう。言えば、仕事が続く。会話が終わる。楽になる。けれど今日は、その一言で終わらせたくなかった。

 「今日の私……逃げなかったです」
 声は小さかった。けれど嘘ではない。胸の奥の震えを抱えたまま、席に座り続けた。匂いを言葉にして、黙らずに、必要なことだけ言った。逃げなかった。

 颯人の手が、膝の上で少しだけ動いた。触れはしない。でも、そこにいる、と分かる動きだった。
 「……ありがとうございます」
 「私こそ、ありがとうございます。……守ってくれたので」

 スイートに戻ったのは二十二時前だった。優は靴を脱いだ瞬間、足の裏から力が抜けて、立っているのが急に怖くなった。玄関のマットがふわりと沈み、膝がほどけそうになる。
 優は壁に指先をつけて、崩れないようにした。頑張っていた、と今さら分かる。頑張っていたから、崩れそうになる。

 颯人は何も言わず、キッチンへ向かった。水の音、カップを置く音。電気ケトルの小さな唸り。優はソファに腰を下ろし、両手を膝に置いたまま動けなかった。

 湯気の立つカップがテーブルに置かれた。淡い色の液体から、草花みたいな匂いがした。
 「ラベンダー、ですか」
 「ええ。七夕が、体が落ち着くと言っていました。あなたにも合うかと思って」

 優はカップを両手で包んだ。温度が、指先から腕へゆっくり上がっていく。
 「……おいしい」
 言ったあと、優は視線を上げた。
 「颯人さん。今日は、ありがとうございます」
 いつもの「すみません」ではなく、ちゃんと違う言葉を選ぶ。選べた自分に、少しだけ驚く。

 颯人は、椅子に腰を下ろしてから、優の言葉を受け取るみたいに一度頷いた。
 「届きました」
 それだけ言って、目をそらさない。

 優はカップを口元へ運び、もう一口飲んだ。息を吸うたび、胸の奥のざらつきが少しずつ溶けていく。
 テーブルの端に置いたスマートフォンを手に取り、匿名の画面を開く。
 『金曜の夜。私は、逃げなかった。』
 短い一文を打って、保存した。言葉にしたぶんだけ、明日の朝が少し軽くなる。

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