ラベンダーミストムーンストーンの花嫁

第8話 これは好きの残骸です

 土曜の十四時。ムーンストーン洋菓子店の休憩室は、午後の陽が斜めに差し込み、古い換気扇が眠そうに回っていた。流し台の端に積まれた紙コップの影が、じわじわ長くなる。

 優は昼の片づけ当番表を指でなぞり、丸が付いている名前を確認してから棚を開けた。休憩室の奥の上段は、誰も使わないまま年数だけ増えた箱が並んでいる。段ボールに書かれた「予備」の文字が、粉と油で薄れていた。

 「この棚、軽くしないと……」
 独り言に返事はない。優は箱を一つずつ下ろし、床に新聞紙を敷いて並べた。マカロンの生地みたいに慎重に扱うのは、割れるからではなく、何が入っているか分からないからだ。

 三つ目の箱の底から、薄いノートが出てきた。表紙は白ではなく、淡いクリーム色。角がふにゃりと柔らかくなっている。指先に触れた瞬間、紙の湿り気と古いインクの匂いが立った。

 表紙の中央に、細い字でタイトルがある。
 『これは好きの残骸です』

 優の肩が、わずかに上がった。息が止まる。止めたつもりはないのに、胸の中で空気が引っかかった。

 この文字は、自分のものだ。けれど今の自分が書いたみたいに整っていない。丸いところが尖っている。行間が急に詰まる。書いた日が、分かる。

 優は椅子に腰を落とし、ノートを開いた。
 ページの端に、鉛筆で日付がある。春の終わり。まだ今より早起きに慣れていなくて、朝五時のアラームに毎回腹を立てていたころ。

 最初の行は、途中で途切れていた。

 『好きって言ったあと、何をすればよかったんだろう。』

 その下に、別の行が重なる。消して書いて、また消して、紙が薄くなっている。

 『仕事が大事なら、俺は——』

 最後の言葉は、線で潰れて読めない。読めないようにしたのだと、優は分かってしまう。
 当時の自分は、結末を決める前に手を止めた。焼き上がりの温度を決めないまま、オーブンを閉めたみたいに。

 その人は、店の閉店時間に合わせて駅で待ってくれた。優は何度も走って、息を切らして、笑って、手をつないだ。けれど、早朝の仕込みと夜の片づけが続くほど、約束は「ごめん」に変わっていった。

 『また今度』
 その三文字が増えるたび、好きは軽くなっていく気がした。軽くなったのではなく、手放したくない側が必死で持ち上げていただけなのに。

 優はページをめくった。書きかけの段落の途中に、ぽつんと一文がある。

 『これは、捨てきれないけど、戻れない。』

 口に出すと泣きそうで、優は唇を結んだ。涙が出そうなのではない。喉の奥が、砂糖を焦がしたみたいにざらつく。誰にも見せないために書いたのに、今の自分がいちばん見たくなかった。

 ドアが開く音がした。
 優は反射でノートを閉じ、膝の上に滑らせた。背筋を伸ばし、何でもない顔を作る。作ったつもりで、頬が引きつっているのが自分でも分かった。

 「お、片づけてる」
 ちほが紙袋を揺らしながら入ってきた。コンビニの袋だ。小さな紙パックの牛乳と、食べかけのバナナが見える。

 「棚、ずっと重かったから」
 優が答えると、ちほは即座に棚をのぞき、箱の山を見て口笛を吹いた。

 「これ、全部いつの。化石?」
 「化石って言わないで。紙だし」

 ちほの視線が、優の膝に止まった。ノートの角が、エプロンの影から少しだけ覗いている。
 ちほは遠慮なく指を伸ばし、角をつまんだ。

 「なに、それ。レシピ帳?」
 「……違う」
 「違うなら、なおさら見たい」

 優は咄嗟に引き寄せた。けれど、ちほは口だけで攻めてくる。

 「隠すってことは、食べ物じゃない。じゃあ、恋?」
 「声、でかい」
 「でかくするよ。休憩室だもん。音、吸うし」

 優はノートの表紙を手で覆ったまま、目線だけでちほを追った。ちほは袋から牛乳を取り出し、ストローを刺してから一口飲む。その間も、視線は優から外れない。

 「昔の下書き。捨て忘れてた」
 優が小さく言うと、ちほはストローを口から外し、首をかしげた。

 「捨て忘れるって、賞味期限いつ?」
 「紙に賞味期限は……」
 「あるでしょ。心の中で」

 ちほは棚の箱を一つ叩き、笑った。
 「食べ物はさ、冷めたら終わりじゃない。温め直せる。けど、温め直すなら、火加減変えなきゃ同じ味にならない。下書きも、たぶん同じ」

 優は言い返せなくて、ノートを抱えたまま頷いた。頷いたところで、結末は書けない。それでも、ちほの言葉は嫌ではなかった。痛いところに当たっているのに、殴られている感じがしない。

 ちほは棚の前で手を叩いた。
 「よし。片づけ、続き。優は箱の中身チェック。私は捨てるか残すか、即決係」
 「勝手に決めないで」
 「迷ったら、迷ったって言いな。迷ってる時間も、ちゃんと仕事だよ」

 その一言で、優の肩の力が少し抜けた。自分の弱さを責めるのではなく、扱い方を教えられた気がした。

 夕方の仕込みに戻るころ、優はノートをロッカーの奥にしまった。すぐに捨てる勇気はない。けれど、見えるところに置くと手が止まる。今の自分は、泡立て器を止めたくない。

 ――

 同じ日の夜、二十一時半。颯人の借りている部屋のキッチンに、優は味噌汁の湯気を立てていた。具は豆腐とわかめ。包丁は、まだ颯人の手に馴染んでいないから、今日は優が切った。

 玄関の鍵が回り、颯人が帰ってきた。コートを脱ぐ前に、手に持った紙袋をそっと持ち上げる。

 「優さん」
 名前を呼ばれて、優は鍋の火を弱めた。返事の前に、背筋が伸びる癖が出る。

 「これ。……昨日、話していた味」
 颯人は紙袋をテーブルに置いた。中から、小さなカップが二つ出てきた。蓋に「塩キャラメル」と印字されている。スーパーの安売りではない。値札が剥がされたあとが丁寧だ。

 優は一瞬、言葉を失った。
 昨日の会食で、季節のマカロンの味を聞かれて、柚子と塩キャラメルだと答えただけだ。好物だとは言っていない。けれど、颯人は「答えた言葉」を拾って、覚えてきたのだ。

 「……買ってきたんですか」
 「はい。甘さが強すぎるのが苦手でしたら、別のに——」
 「苦手じゃないです」

 優が遮ると、颯人は少しだけ目を見開いた。そのあと、ふっと息を吐いて笑う。笑うときも、音は大きくない。けれど、空気の角が丸くなる。

 「よかった。昨日、あの場で助けられました。謝る言葉は、もう受け取ってもらえたので。今日は、礼を言うほうです」
 そう言って、颯人は自分のカップも取り出した。

 優は冷蔵庫からスプーンを二本出し、柄を揃えて置いた。スプーンの向きまで揃えるのは、落ち着くからだ。颯人はそれを見て何も言わず、座る位置を少しだけずらしてテーブルの端を合わせた。揃える癖が、違う形で似ている。

 蓋を開けると、キャラメルの香りが立ち上がった。塩が入っているぶん、甘さの奥に輪郭がある。
 優は一口すくい、舌の上で溶かした。舌先がぴりっとして、そのあとに牛乳の丸さが追いかけてくる。

 「……おいしい」
 言いながら、優は自分の声が柔らかいことに気づいた。

 颯人は一口食べ、頷いた。
 「味がはっきりしている。作る側は、こういうのが好きですか」
 「好き、というか……安心します。甘いだけだと、どこまで行っても甘いから」
 「境目があるほうが、疲れない」
 颯人はそう言って、また一口食べた。言葉が、今日の優の喉にひっかからない。簡単に飲み込める。

 優はロッカーにしまったノートを思い出した。
 『捨てきれないけど、戻れない』
 その行の隣に、今なら違う言葉が書ける気がした。捨てなくてもいい。戻らなくてもいい。残ったものは、残ったまま扱えばいい。

 食後、優は流し台に立ち、皿を洗った。颯人は袖をまくり、黙って隣に立つ。泡が飛ぶと、颯人がタオルを取って拭く。優が拭こうとすると、颯人が首を振る。小さなやり取りが続くうちに、優の胸のざらつきは、少しずつ水で流れていった。

 寝る前、優は匿名の画面を開いた。
 『土曜の夜。塩キャラメルは、いまの味だった。』
 短く打って、保存する。結末はまだ書けない。けれど、今日の一行なら書ける。

 ロッカーの奥のノートは、そのままにしておく。燃えるゴミに出す日を決めなくても、明日の仕込みはできる。優はそう思いながら、電気を消した。

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