祝福のあとで
 少しだけ間があった。

「……前は」

 ひかりは、グラスを見つめたまま言った。

「結婚にも、
 ちゃんと夢を見てたんです」

 直は、何も言わない。

「結婚式を形にする仕事をしてるのに、
 自分のことだけは、
 後回しにして」


「でも、
 それでいいって思ってました」

 ひかりは、
 自分でも驚くほど、
 静かな声で続ける。

「今は……」

 言葉を探す。

「同じようには、
 思えなくなりました」

 直は、しばらく黙っていた。

 答えを探しているというより、
 言葉を選んでいる沈黙だった。

「……夢を見ていたからこそ


 裏側も、全部見える位置に
 立ってしまったんでしょうね」

 断定ではない。
 でも、外してもいない言い方。

 ひかりは、小さく息を吐いた。

「そうかもしれません」

「それは、
 弱くなったわけじゃない」

 直は、グラスに目を落としたまま続ける。

「現実を知っただけだと思います」

 ひかりは、
 その言葉を胸の中で転がす。

 現実を知っただけ。

 突き放すでも、
 慰めるでもない。

 ただ、
 同じ高さで受け止める言葉。

「……昔は」

 ひかりは、
 少しだけ視線を上げた。

「好きって気持ちがあれば、
 何でも越えられるって、
 本気で思ってました」


「結婚も、
 仕事も」

 直は、
 今度ははっきりとひかりを見る。

「今は?」

 さっきと同じ問いなのに、
 少し意味が違って聞こえた。

 ひかりは、
 迷わず答えた。

「好きだけじゃ、
 足りないこともあるって、
 知りました」

 声は静かだった。

「でも
 
 それで、
 何も信じられなくなったわけじゃないです」

 直の眉が、
 ほんのわずかに動く。

「どういう意味ですか」

 聞く側じゃない。
 踏み込む側の声。

 ひかりは、
 少しだけ考えてから言った。

「誰かと向き合うことを、
 やめたいとは思ってません」

「慎重になっただけで」

 直は、
 ゆっくりと頷いた。

「それなら」

 グラスを置く音。

「今の方が、
 ずっと現実的ですね」

「……褒めてます?」

「はい」

 即答だった。

 ひかりは、
 思わず小さく笑う。

 その笑いが消えたあと、
 直は、少しだけ間を置いて続けた。

「だからこそ、
 今日、
 ここにいるんだと思います」

 ひかりは、
 何も言えなかった。

 否定も、
 肯定もせず。

 ただ、
 その言葉が、
 胸の奥にすっと収まった。

 料理は、
 ほとんど残っていない。

 グラスの中の氷も、
 ずいぶん小さくなっていた。

 直は、
 空になりかけたグラスを見てから言った。

「……今日は」

 少しだけ柔らかい声。

「仕事の話でも、
 答え合わせでもなくて


 ただ、
 一緒に食事ができてよかったです」

 ひかりは、
 その言葉を聞いて、
 ゆっくりと頷いた。

「……はい」

 それだけで、
 十分だった。

 この夜は、
 何かが決まったわけじゃない。

 でも、
 何かを選び直す場所には、
 確かに立っていた。

 ひかりは、
 そう思いながら、
 グラスに残った最後の一口を、
 静かに飲み干した。
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