桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
「女王様、此所でチェシャ猫を諦めたら、私は後悔する。チェシャ猫のことを、忘れることなんて出来ない。だからお願い、我が儘ばかりで愛想を尽かしてしまうかもしれないけれど」
「良いわ。鏡を割って、行きなさい。大切な人を失って、絶望の果てに死なれるのはもうごめんだわ」
女王様の言葉に、素直に喜べない。その過去に寂しくなった。アリス達の想いがあるから道が拓いていく。彼女達を犠牲と言わせない為にも、私は最後までその道を進まなければ。
「ほっほっほ、強くなりましたな」
「ジャックさん!」
突然の登場に、驚きを隠せなかった。歳はもう七十を越えるはずなのに、あれだけの騒動がありながら、きびきびとした動作でこちらに歩いてくる。微笑みが刻まれた口元は皺を一層深くしていた。
どうしてここに、という問いを予め予測していたのか、女王様が先行して答えてくれる。
「私が来るように命じたのよ。アリスに渡すものがあるそうよ」
「旅立ちの時に預かっていた物ですぞ。枯れぬよう、ガラスの中に閉じ込めておきましたぞ」
伸ばされたジャックさんの手のひらが開かれて、見覚えのある赤が顕になった。
ガラスの中に閉じ込められた赤が、夜風と薔薇の香りを鮮明に呼び覚ます。
「アネモネの花。花言葉ははかない恋など、悲しげなものが多いのですが、赤の花言葉は『君を愛す』。愛の告白なら庭園の薔薇があれど、それをわざわざあのような場所に咲いた花を取りに行くとは。アリス殿は本当に愛されてますな」
「あのような場所?」
「兵士の情報ですと、城のそう遠くない谷間に、アネモネが咲いていたとのこと。誰も寄り付かぬ、秘密の谷間で彼はこの花を摘んだのです」
息が出来なかった。胸が握りつぶされそうなくらい圧迫されて、熱いものが込み上げる。似合うよ、とチェシャ猫がこの花が髪に挿した時の言葉が鮮明に甦った。そしてあの時の心臓の高鳴りが、更に胸を焼く。
「どうして、どうして此処にチェシャ猫がいないんだろう」
私にこの花をくれた時から。チェシャ猫は。
「今すぐ、会いたい。駆けていきたい。思い切り飛び込んで、伝えたい。私もチェシャ猫が好きだよって。ずっと一緒にいたいって」
幼少の頃。忘れていた記憶がふっと蘇る。色褪せた記憶は瞼の裏で止まった景色として浮かび上がった。そして、チェシャ猫との別れを思い出させた。
「チェシャ猫、行っちゃやだよ」
嫌だよ。こんなところでお別れなんて嫌だよ。チェシャ猫が死ぬなんて、消えちゃうなんてもっと嫌。もっともっと一緒にいたい。ずっとずっと一緒にいたい。旅が終わっても傍で笑っていてほしい。
こんな別れかたをして、正直挫けそうだった。起きたらチェシャ猫がいないなんて、真っ暗な夢の中に身を投じた方がずっとずっとマシとさえ思う。
「今から駆けていくんだ、俺達を追ったように、チェシャ猫を助けにいくんだろ」
黒ウサギの声が、地下に反響する。氷のように透き通るその声は、ひんやりと私の心を冷やしてくれた。階段を降りてくる黒ウサギの後ろには、白ウサギがいる。
「アリスならチェシャ猫を捕まえられます。なんせ、こんな天の邪鬼な黒ウサギを捕まえたんですからね」
「天の邪鬼、なわけじゃない。意地っ張り天然ウサギ」
早速の兄弟喧嘩に、驚きつつも可笑しさが混ざる。二人は軽く睨み合った後、互いに笑って私に視線をくれる。そして二人同時に、ゆっくりと腕を前に伸ばした。
手のひらにあるのは、私が止めた時計。
「アリス、お前はこれを受けとる権利がある」
「良いわ。鏡を割って、行きなさい。大切な人を失って、絶望の果てに死なれるのはもうごめんだわ」
女王様の言葉に、素直に喜べない。その過去に寂しくなった。アリス達の想いがあるから道が拓いていく。彼女達を犠牲と言わせない為にも、私は最後までその道を進まなければ。
「ほっほっほ、強くなりましたな」
「ジャックさん!」
突然の登場に、驚きを隠せなかった。歳はもう七十を越えるはずなのに、あれだけの騒動がありながら、きびきびとした動作でこちらに歩いてくる。微笑みが刻まれた口元は皺を一層深くしていた。
どうしてここに、という問いを予め予測していたのか、女王様が先行して答えてくれる。
「私が来るように命じたのよ。アリスに渡すものがあるそうよ」
「旅立ちの時に預かっていた物ですぞ。枯れぬよう、ガラスの中に閉じ込めておきましたぞ」
伸ばされたジャックさんの手のひらが開かれて、見覚えのある赤が顕になった。
ガラスの中に閉じ込められた赤が、夜風と薔薇の香りを鮮明に呼び覚ます。
「アネモネの花。花言葉ははかない恋など、悲しげなものが多いのですが、赤の花言葉は『君を愛す』。愛の告白なら庭園の薔薇があれど、それをわざわざあのような場所に咲いた花を取りに行くとは。アリス殿は本当に愛されてますな」
「あのような場所?」
「兵士の情報ですと、城のそう遠くない谷間に、アネモネが咲いていたとのこと。誰も寄り付かぬ、秘密の谷間で彼はこの花を摘んだのです」
息が出来なかった。胸が握りつぶされそうなくらい圧迫されて、熱いものが込み上げる。似合うよ、とチェシャ猫がこの花が髪に挿した時の言葉が鮮明に甦った。そしてあの時の心臓の高鳴りが、更に胸を焼く。
「どうして、どうして此処にチェシャ猫がいないんだろう」
私にこの花をくれた時から。チェシャ猫は。
「今すぐ、会いたい。駆けていきたい。思い切り飛び込んで、伝えたい。私もチェシャ猫が好きだよって。ずっと一緒にいたいって」
幼少の頃。忘れていた記憶がふっと蘇る。色褪せた記憶は瞼の裏で止まった景色として浮かび上がった。そして、チェシャ猫との別れを思い出させた。
「チェシャ猫、行っちゃやだよ」
嫌だよ。こんなところでお別れなんて嫌だよ。チェシャ猫が死ぬなんて、消えちゃうなんてもっと嫌。もっともっと一緒にいたい。ずっとずっと一緒にいたい。旅が終わっても傍で笑っていてほしい。
こんな別れかたをして、正直挫けそうだった。起きたらチェシャ猫がいないなんて、真っ暗な夢の中に身を投じた方がずっとずっとマシとさえ思う。
「今から駆けていくんだ、俺達を追ったように、チェシャ猫を助けにいくんだろ」
黒ウサギの声が、地下に反響する。氷のように透き通るその声は、ひんやりと私の心を冷やしてくれた。階段を降りてくる黒ウサギの後ろには、白ウサギがいる。
「アリスならチェシャ猫を捕まえられます。なんせ、こんな天の邪鬼な黒ウサギを捕まえたんですからね」
「天の邪鬼、なわけじゃない。意地っ張り天然ウサギ」
早速の兄弟喧嘩に、驚きつつも可笑しさが混ざる。二人は軽く睨み合った後、互いに笑って私に視線をくれる。そして二人同時に、ゆっくりと腕を前に伸ばした。
手のひらにあるのは、私が止めた時計。
「アリス、お前はこれを受けとる権利がある」