桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 耳元で囁かれた声に、はっと振り向く。先程まで歩いていた森は忽然と消えていた。チェシャ猫もいない。肌を撫でたのは、夢の心地良い風。暖かな木漏れ日。夢の続きを見ているように、トランプが風に飛ばされる。木陰の下に、その人は座っていた。ブラウンの髪が、さらりと風に揺れる。艶のある唇が薄く開かれた。
「帰ってきて、アリス」
 手を握る力強さに、現実へと引き戻される。元の深い森が視界に戻ってくる。
「幻影に迷ってしまってはいけないよ」 
『帰ってきて』
 その言葉が、夢のお姉様のものだったのか、チェシャ猫の言葉だったのかは判別がつかない。
「幻影?」
「迷いの森だからね、幻影に迷ってしまうこともあるんだよ」
 魔物じゃなくてほっとしたけれど、なんとなく胸はざわついたままだ。あれが幻影なら、今日はずっと白昼夢を見ている。肌に残る暖かな風と木漏れ日を振り切るように、頭を振る。チェシャ猫が幻影というなら、あれが夢だ。
「アリス。あれを見て」
 チェシャ猫が指した方には小さな小屋。木で作られた小屋は、蔦や草花がこびりつき、植物が小屋と一体化していた。小屋の中で火を焚いているのか中は明るい。
「こんな森の中に人が住んでいるのかな?」
「行ってみよう」
 小屋の前に移動すると、木製の小屋は所々黒くくすんでいるのが分かった。ドアの前に立ち、遠慮がちにドアを叩く。
「誰かいませんか?」
 何度も叩くけど反応はない。その後も呼び掛けを続け暫く待ったけど、返事は返ってこなかった。困ったね、とチェシャ猫と顔を見合わせる。
「返事、返ってこないね。いないのかな?」
「入ってみようか」
 ドアを開くといかにも古く錆びたようなギィ、という音がした。チェシャ猫に続き、小屋の中に入ると、中には誰もいない。
「出掛けているのかな?」
 小屋の中を見るとベッドやテーブルが置かれている。少し埃っぽいけど、誰かがいたような形跡はある。その証拠に、薪が炊かれているので部屋の中は暖かかった。
「誰もいないね」
 うん。と返事をしようとした瞬間、窓の外に誰かが走っていく姿が視界を掠めた。
「アリス。追いかけよう!」 
 チェシャ猫の一言で小屋を飛び出る。
 もしかして。そんな事を思って必死に走る。
 ウサギの事を知っているかもしれない。 チェシャ猫と共に人影を必死に追いかけるけど、なかなか距離が縮まらない。
「待って!」
 叫ぶものの、走っていく人は聞こえていないのか止まる気配がない。
 このままじゃ逃げられちゃう!
「アリス! 僕が前に回るよ!」
 そう言うが早いか、チェシャ猫は軽やかに走っていった。
 瞬く間に走っている人を追い越し、前に回る。チェシャ猫に驚いたのか、その人物が止まった。全力で走り、ついにその人の近くまで追い付く。
「はぁ、はぁ、あ、あのっ!」
 息が苦しい。言葉が上手く出ない。膝に手を当てて呼吸を整える時間も惜しく、顔を上げる。すると、走っていた人物がこちらを振り返ったところだった。追うのに必死で分からなかった人物が、はっきりと目に映る。
 頭には黒いシルクハット。服は青いセーターに白いワイシャツ。首元には青いネクタイ。黒い髪に、青い瞳。不機嫌そうに見つめてくる瞳はどこか鋭い。
「あ、えっと、いきなり追いかけたりしてごめんなさい! あのっ、聞きたいことがあって」
「ウサギの事だろ?」
「え?」
 黒髪の青年は、私が考えている事を口にした。
「どうして」
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