桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 ふと、三月ウサギの攻撃をかわすチェシャ猫が私を捉える。一瞬だったけれど、チェシャ猫の唇が動き、何か言葉を呟いた気がした。 聞こえたわけじゃないけれど、チェシャ猫が何を伝えてくれたのかが判って泣きそうになる。
『頑張れ』
「チェシャ猫」
 チェシャ猫は確かにそう言ってくれた。
 たった一言。たった一言だけど、その言葉は私の迷いを打ち消すには十分だった。
 死闘は続き、チェシャ猫も隙を見ては三月ウサギに攻撃を試みる。チェシャ猫の爪が三月ウサギの左腕を狙う。チェシャ猫の素早さが上回ったのか、狙い通り左腕に爪が食い込み、三月ウサギの服が千切れた。破けた服と共に流れる血。
 流石の三月ウサギも痛みを感じたのか動きを鈍らせ、その隙をチェシャ猫は見逃さず攻撃に出る。三月ウサギの腹にチェシャ猫の蹴りが当たり、三月ウサギは数メートル飛ばされた。
 三月ウサギの身体が地面に落ち転がる。 普通なら死んでしまうような攻撃を目の前に、足の力が抜けそうになったけれど、チェシャ猫の言葉を思い出して足に力を込めた。
「黒ウサギ」
 チェシャ猫。私、頑張るよ。
 足に込めた力を踏み出す力に変える。そしてそのまま黒ウサギの方を振り返った。 交わる視線。
「鏡はあるよ。私は白ウサギを信じている」
「アリスが誰を信じようと俺には関係ない。だけどアリスの選択は世界を左右する! お前、世界を滅ぼす気なのか!」
「ずっと悩んだ、考えたよ。ここまで来る中で実感もした。それでも信じたいの。私は、ほんの僅かでもいい。希望があるのなら私はその希望を無駄にしたくない! こんな悲しみを断ち切りたいの!」
 力の限り、声を振り絞って叫ぶ。
 世界を危険に晒す事は解っている。それでも白ウサギの言葉を信じる事を決めて黒ウサギを追ってきた。思えば、あの恐ろしい魔女がかけた呪いが、直ぐに解けるはずない。それに、鏡だってそう簡単に見付けられるはずがない。見付けられたなら黒ウサギの言う通り呪いは解けて、世界の崩壊に怯えることも呪いに苦しむこともなかったのだから。
「俺は、俺は信じない! 鏡なんて無いんだ!」
「そんな事ない。そんな事、言わないで。黒ウサギだって、本当は」
 叫んだ黒ウサギの言葉に見えた、彼の隠れた想い。
「ハナセハナセハナセハナセハナセハナセッッ! クヒヒ、クヒヒヒヒケケケケケケ!」
 再び響いた狂った叫び声に驚いて声の主を見ると、チェシャ猫に身動きを封じられた三月ウサギがケタケタと笑っている。地に伏せている三月ウサギは、細い身体を何度も揺らす。
「まだ抵抗するのかい? どうしてそこまでしてアリスと黒ウサギを狙うんだい?」
 ピクリ、とチェシャ猫の言葉に反応したのか、オレンジ色の耳が動く。
 狂った笑いがやみ、一瞬だけ静かになったかと思うとボソボソと何か呟き、それは段々と叫びに変わる。
「アリス! アリス! コワセバコワセバ、セカイ、コワレル! クロウサギ、オマエ、オマエ、オマエ、モ、キエレバ、キエレバ! セカイキエル! コワレル! コワレル!」
 ケタケタと笑い続ける三月ウサギ。
「黒ウサギと私を攻撃してきたのは、世界を壊すため?」
 私が死んでしまえばウサギの時計を止められる者はいなくなる。三月ウサギはそれを知っていて。
「どうして、世界を壊すためなんて」
「ヒャハハハハハ! コワレル! コワレル!」
 言葉が通じるかどうか不安になるくらいに、狂い笑う三月ウサギ。私の疑問になんて応えてはくれないだろう。
「恐怖から解放される為、か」
 私の考えを知ってか知らないのか黒ウサギが呟く。
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