桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 周りを見渡せば、状況は一転し黒ウサギもが兵士と戦っている。
 チェシャ猫の相手はスペード軍最強の兵士。そして黒ウサギは何人ものスペード軍に圧され苦戦を強いられている。
「このままじゃ」
 最悪の想定が浮かび、不安が押し寄せてくる。
 どうして、どうしてこんな状況に?
 思わず止血している手に力がこもる。
「スペードのエース、あんたも女王も、アリスに無理矢理時計を止めさせる気なんだね」
 戦闘の合間、聞こえてきたチェシャ猫の言葉に耳を疑った。
「貴様には関係ないと言ったはずだ。任務の邪魔伊達をするなら容赦はしない」
「無理矢理、私に時計を……うそ、嘘だよ」
『ウソナラ、ドウシテスペードヘイガココニ?』
「だって女王様は」
『ジョオウサマハアナタニナンテイッテイタ?』
『選ぶの。それがアリスの使命。時計を止めて、不思議の国が崩壊するのを防ぐのよ。全ての代のアリスがそうしてきたわ』
 選ぶ。女王様は私に白ウサギか黒ウサギ、どちらかを選べと言っていた。そして、そう言った女王様の瞳は冷たい光。
 言われなくたって感じていた。
 選ぶ以外の選択肢が、許されない事――
「ぐあっ!」
「今だ! 黒ウサギを捕えろ!」
「くそ、離せ!」
 ――嫌。
 耳に入る斬り合いの音。ついに肉を裂く光景が目に入り、視界が赤に染まる。
「チェ、シャ、猫」
 深く切れた箇所は皮膚がぱっくりと割れ、血は空中を舞って地面に落ちる。
「はぁ、はぁ、アリス、逃げて。君が捕まってはいけない」
「嫌だよ、チェシャ猫を残してなんて行けないよ!」
「ボウシ、ヤ」
 止血している手が生暖かくて視線を落とすと、手は血にまみれている。いつの間にこんなになっていたんだろう。鮮烈な赤は、生と死の狭間を色濃く映し出す。その狭間にいるのは三月ウサギだけじゃない。私たちもその狭間を内に秘めている。
 世界の色が失われて、絶望が足先から侵食していく。じわじわと登ってくる絶望に、抗う術がなかった。ここで希望が途絶えるのだと知ってしまった。
「アリス、逃げて」
「死ね。邪を呼ぶ猫」
「嫌、嫌、嫌――――!」
 絶望に叫んだその瞬間、深い深い闇を呼び起こした気がした――
「ククククククククハハハハハハハ!」
 笑い声と共に黒い渦が立ち始める。その渦は三月ウサギを中心として起こり、渦は段々と勢いと黒さを増していく。目に映る色濃い黒い狂気は、渦巻き人間の姿を形作っていく。
 ふわりと地面に降り立ったドレス。黒のヒールが乾いた地面に音を奏でた。美しく靡いた黒い髪。地まである長い髪は、くるりと人の正気を絡めてしまいそうで。弧を描く血を舐めたような艶やかな唇が、一層その恐怖を駆り立てる。
 この、気配。この狂気。
「クククク。久方ぶりよ。この地に降り立つのも。なぁ、そうだろう?」
「ど、うし、て。貴、女は」
 一度だけ姿を見たのは夢の中で、実際に会ったことはない。けれど彼女が何者なのか、彼女が名乗らなくても分かってしまう。人を狂気に貶めるような禍々しい圧力。人を人と見ていない、嘲るような笑い。絶対的な権力や暴力に似た抗えない巨大な力。得体の知れない存在が、幽霊がそこにいるような怖さがある。彼女がそこにいるだけで、生命の水が乾き、森の木々は枯れ果てるようだった。
 世界に恐怖をもたらした存在。彼女はそう、暗黒の魔女。
「ククク。そうだとも。妾こそが、暗黒の魔女。分かっておろう? 十四代目アリス?」
「あ、う」
 完全に姿を現した暗黒の魔女が、絶望を秘めた漆黒の瞳で問いかける。けれど私は答えることが出来ない。
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