桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 喉を押しつぶしていく恐怖。感じる深い闇。身体は正直に狂気に反応しガタガタと震えだす。意識に侵食していく言い難い恐怖に、今にも狂ってしまいそうだ。
「貴様が暗黒の魔女、何故貴様がここに!」
 剣を地面に刺し、身体を支えながら狂気に耐えるエースが叫ぶ。
 そうだ、チェシャ猫。チェシャ猫はどうなったの?
 頭の隅でチェシャ猫の安否を考えるけれど、視線は暗黒の魔女に釘付けで動けない。視線を外してしまえば、恐怖に負けてしまいそうだった。
「クク、スペードのエース、妾を前にしてまだ抗うか。ヒヒッ! 狂気に身を任せれば良いものを。呪いにも抗うとは愚かな。だか、視ていて飽きぬ」
 暗黒の魔女はスペードのエースを見下し笑う。
「貴様!」
 勘に触ったのか、エースは不快感を露にして暗黒の魔女を睨み付ける。その眼光の鋭さは今までの比ではない。相手を嫌い、憎み、殺したいと思っているほどの感情が含まれている。けれど剣を向けることはしなかった。出来なかったのだ。暗黒の魔女の影響か、エースも正気を保つのが限界になりつつある。そして、私も。
「チェ、シャ、猫!」
 口も目も、恐怖のあまり引き攣り、動いてくれない。全身の筋肉が硬直してしまい、指一本動かすことが出来なかった。瞬きが思うようにできず、目が乾いてくる。
 ――怖い。
「フフ、ハハハハハハハ! 恐怖でものも言えぬか! 弱小なモノよ」
 暗黒の魔女の漆黒の瞳が、怯える私を捉えて嘲笑う。
 怖い。流れる長い漆黒の髪。漆黒の瞳。それらを際立たせる煌びやかなドレスも、今は恐怖の対象でしかない。まるで闇に吸い込まれていくよう。ただそこにいるだけなのに。 彼女の漆黒が、心を抉り恐怖を駆り立てる。これが、暗黒の魔女の力。
「アハハハ」
 無意識思わず漏れた笑い声。笑いたくもないのに、笑いが込み上げてくる。
 敵うわけない。なのに、私、魔女を倒そうなんてなんて馬鹿なことを考えたんだろう。
「ハハ」
 全てが馬鹿らしくなって、全部全部、どうでもよくなる。
 世界も、呪いも、自分自身さえも。全てここで滅べばいいんだ。聞こえ続ける地鳴りが心地好い。私は何が不安だったのだろう。地面が抉れる音も、それに伴う振動も、魔女の笑い声も、こんなに楽しいものなのに。
 世界の振動は更に激しさを増し、暗雲に覆われた空は色濃い闇に染まっていく。
 そう、そのまま世界が壊れていけばいい。跡形も残らず、こんな狂気にまみれた世界なんて崩れてしまえば世界はきっと楽になる。恐怖も、悲しみも、不安も無くなるのだから。何も恐れるものは無い。
「アハハハハ」
 楽しもう。世界の終焉はもう近い。皆で踊り狂いながら世界の終焉を迎えるのも悪くない。曲がった楽器で不協和音を響かせながら、習った順序なんて無視して踊って回り続ける。お茶会も催して粉々になったティーカップにお茶を注ぐのも素敵かもしれない。
「ククク、ヒャハハハ! 滑稽滑稽! 楽しいぞ、アリス! 狂気に歪むそなたの姿、妾の好むものだ!」
 暗黒の魔女は手を伸ばし、氷のように冷たい手で私の顔を撫でる。愛でるようなその仕草は、私の心臓を凍らせてしまいそうで、ぞくりとした。いっそのこと、暗黒の冷たさにずっと触れていたいと思った。あんなに怖かった魔女の声も、今では狂喜の原料にさえなる。
「ハハハハ」
 辺りから聞こえてくる笑い声。スペード兵の笑い声も加わり、場は一層賑やかになる。
 狂ったような笑い声が愉快で、叫びたい衝動に駆られる。
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