桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
 私は木漏れ日の光景を忘れて身を任せた。でも、目を反らすことが出来ない現実は、耳や目に直接訴えかけてくる。
 迫りくる兵士達。とにかくここから逃げなきゃいけない。ここで捕まったら、黒ウサギの時計を止めさせられて、白ウサギは消えてしまう。それに三月ウサギだって、処刑されてしまう。
 チェシャ猫は兵士達から仕掛けられる攻撃を、上手く受け流しながら誘導してくれる。
倒れている三月ウサギの身を確保すると、動かない三月ウサギの体を支え、再び走り出した。
 チェシャ猫の足手まといにだけはならないようにしなきゃいけない。
 けど、どうしたらこの状況を打破出来るの?
 周りを見渡しても、助けになりそうなものは一切ない。武器も打開策も、なにもない。黒ウサギだって兵士と応戦していて、逃げる隙さえないみたいだ。
「女王様、止めて!」
 冷ややかな視線で見下ろす女王様に訴える。
「どうして、こんなことするの。私を育ててくれたのは女王様で、ずっと一緒だった。私にとってお母さんみたいで、でもお姉さんみたいで、たった一人の私の家族だって、思っていたのに。どうして信じてくれないの」
 悲痛な叫びは、女王様には届かない。
「それはこちらの台詞よ。なぜ私を信じないの」
 氷のように凍った心に、ヒビが見えた気がした。
「泣くのは早いですぞ、アリス殿」
 泣きそうになっていた私の耳に、聞きなれた声が届く。その声は戦いの音が止まない中でも、しっかりと聞こえた。低いテノール。年齢を感じさせる物言いに、優しくて、でも女王様にも負けない威厳がある、この声は。
「ジャック、さん?」
「ほっほっほっ、間に合いましたな。女王陛下、一人の幼き少女に、これは酷ではありませんかな?」
 どこからか現れたジャックさんの姿に目を見張る。
 赤い隊服に身を包む彼は、後ろに数名のハートの兵士を引き連れこちらへ向かってくると、女王様を宥めるように言う。
 突然の乱入者に他の兵士達は動きを止め、ジャックさんを見つめた。女王様はジャックさんの発言にも、ポーカーフェイスを保ったまま出方を伺っていた。
「ジャック、あなたは呼んでないはずよ。何を考えているの」
「我輩がここに来たのは、国と我輩達の大切な少女を救うため」
 無礼な、とか黙りなさい、とかそんな言葉を通り越して、思惑を問う。この先ジャックさんがどう動くのか、女王様は察したのかもしれない。ポーカーフェイスを崩し苦い顔をした。
「私を裏切る気ね」
「裏切るなんて滅相もない。我輩も首が惜しい。それに、生涯心を寄せて仕えた愛する主を裏切るなど、陛下を家族と慕うアリス殿と同じくらいありえませんな」
 ジャックさんは微笑みながら髭を指先でいじるだけ。場の凍りつくような雰囲気に、辺りはシンと静まりかえる。二人のやり取りを、私はただ黙ってみていることしか出来ない。緊迫したこの空間の危うさを感じて、チェシャ猫の手を強く握った。
「反逆罪はただではすまないわよ」
 女王様の声に、怒気が含まれる。
「ジャックさん」
 不安げに名前を呼ぶと、ジャックさんは優しさを含んだ瞳で微笑んだ。けれど直ぐに瞳には底知れない威厳が宿る。その瞳が、決意などとうに決まっていることを伝えていた。
「ハート兵士達よ、アリス殿とウサギ殿をお守りしろ!」
 ジャックさんは手を横に振りそう叫ぶと、事態は一変しハートの兵士も女王様の部下の兵士達も一斉に動き出した。
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