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第三章、友達
友達
翌朝。
目が覚めた瞬間、全身に鉛でも埋め込まれたかのような重みを感じた。
「いったぁ……」
声を漏らしながら腕を持ち上げただけで、肩の筋肉がピキッと悲鳴を上げる。
足も痛い。 腰も痛い。普段どれだけ運動していないのかを思い知らされるような筋肉痛だった。
カーテンの隙間から差し込む朝日をぼんやり眺めながら、私はしばらくベッドの上で現実逃避をする。
下のベッドから、もぞ……もぞ……という不穏な物音が聞こえる。
「……心乃ちゃん?」
恐る恐る覗き込むと、そこには毛布にくるまったまま、じわじわと起き上がろうとしている心乃ちゃんの姿があった。
「……」
無言。
しかし顔は真剣そのものだ。
両腕でベッドの縁を掴み、腹筋に力を入れて上半身を起こそうとしている。
だが。
途中で力尽きた。
ぼすっ。
再び布団へ沈む。
「よし、今日は爆睡しよう」
「そうだね!食堂に行かなかったらご飯は部屋まで運んでくれるしね」
私が力強く頷くと、心乃ちゃんも毛布の中から親指だけを突き出した。
「採用」
満場一致である。異議を唱える者はこの部屋に誰もいなかった。
そのまま二人して、それぞれのベッドから動くことなく天井を見上げる。
開いた窓から流れ込む風が心地よく、鳥ののどかな鳴き声が遠くで聞こえる。昨日の波の音が嘘のようだ。なんて平和なんだろう。
「ねぇ、心乃ちゃん」
「なんぞ」
「あの二人も筋肉痛になってると思う?」
「思わん」
「だよねー」
そんな他愛のない確信を口にしつつ、心乃ちゃんが最近ハマっているという最新のメイクや、次に挑戦したい髪型の話に花を咲かせる。
痛みを忘れて女子トークに没頭していると、コンコン、と部屋のドアが軽快にノックされた。
「おはよう。二人とも朝だよー」
職員さんが私達を呼びに来てくれたが、私達は今起きれる状態じゃない。
職員さんはベッドの上で転がっている私達を見て、状況を一瞬で察したらしい。
「海、楽しかったもんねぇ。私も行きたかったなー」
「昨日は夜勤でしたもんねー」
「そーだよー。そうだ、二人とも、朝ご飯どうする? 食堂まで降りてこられそう?」
「「部屋で」」
私と心乃ちゃんの息は、この時ばかりは見事にぴったりと合った。
「オッケーイ。じゃあ少し待っててね」
そう言って笑う職員さんの足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私達は再び、深い二度寝の幸福へと沈んでいった。
✳✳✳
どれくらい心地よく眠っていたのだろう。
次にスッキリと目が覚めてみると、あんなにガチガチだった筋肉痛の痛みが、不思議と少しだけ引いていた。
それと同時に、お腹の虫が「ぐぅ」と情けない音を立てて主張し始める。ふと耳を澄ますと、下からカチャカチャと静かな金属音が聞こえてきた。
ベッドから下を覗き込むと、部屋の小さなミニテーブルの上には、いつの間にか二つのトレイが置かれていた。そして、その片方の前には、すでに寝癖を少し直した心乃ちゃんが座っている。
お腹の空き具合がいよいよ限界だったので、私は手すりを掴みながらゆっくりとハシゴを下り、心乃ちゃんの向かい側に腰を下ろした。ストローでコーヒー牛乳を飲んでいた心乃ちゃんが、ズズッと音を立てて顔を上げる。
「起床」
「おはよー」
トレイの上には、シンプルな食パンといくつかのジャム、そしてフルーツ。
私はさっそくパンの袋を開け、付属のいちごジャムを絞り出して塗りつける。カリッと焼かれたトースターが欲しいというのが、ここ最近の私達の密かな悩みだった。
「心乃ちゃん、バナナあげる」
フルーツとして付いてきているバナナを心乃ちゃんのお盆の上に置いた。
「ありがたき幸せ」
心乃ちゃんはコーヒー牛乳のパックを置くと、時代劇の家臣のように恭しく両手でバナナを受け取った。
「私の分のジャム、そっちに召喚していいよ。今日はバナナ一本勝負にするから」
「わーい、ありがとう! いちごジャム二倍は贅沢すぎる」
トーストされていない食パンは少しパサついていて物足りないけれど、こうしてジャムをこれでもかと贅沢に、厚塗りにすれば一気に特別感が増す。
「そんな塗ったら甘すぎでしょ」
心乃ちゃんが尋ねると、私はパンの表面を真っ赤に染め上げながら首を横に振った。
「焼かれてない食パンをかじるよりはマシだよ〜」
「まぁ、それは確かに」
そんないつもより少し遅めの朝食の時間を過ごしていると、突如、ノックもなしにバーンと勢い良くドアが開け放たれた。
「お、なんだ。まだ食べていたのか!」
「食堂にいませんでしたので、もしかしたらと思い、様子を身に来たんですけれど......大丈夫そうですね」
眩しい笑顔で立ちはだかる清次郎くんと、その斜め後ろから苦笑いを浮かべるカイジくんだった。
「うわっ、びっくりした!」
私がジャムのついた袋を持ったまま固まると、心乃ちゃんは手元のバナナで二人に向けて差した。
「ここ女子部屋。ちゃんとノックしろー」
「そーだ、そーだ」
「生存確認するために急いでいたからな、忘れてた」
清次郎くんは全く悪びれる様子もなく、腰に手を当てて快活に笑った。
その一方で、後ろに控えるカイジくんは「ごめんね。一応止めたんですけど……」と、申し訳なさそうに困り眉で頭を掻いている。
「まったく、主君たるオレがわざわざ様子を見に来てやったのだ。二人は光栄に思うがいい!」
「いや、ノックは社会の基本ですよ、清次郎くん」
カイジくんがため息をつきながら、開け放たれたドアの隙間をさりげなく自分の体で遮るようにして立つ。その肩の上では、ニュートンが眠たそうにギョロリと目を動かしていた。
「あ、カイジくん、ニュートンは筋肉痛になってない?」
「カメレオンの筋肉痛は聞いたことがありませんね。ただ、昨日は慣れない外の空気に緊張していたみたいで、部屋に戻ってからは僕のベッドの上でずっと丸くなっていました」
カイジくんはそう言って、ニュートンの小さな頭を人差し指でそっと撫でる。
昨日の砂浜での緊迫した瞬間――あの、クラスメイト達とすれ違ったときの冷たい空気。それは今、この狭い女子部屋に漂うパンの甘いジャムの香りと、みんなの呆れたような笑い声の中に、嘘みたいに溶けていく。
「今日は午前中が自由時間で、午後からお菓子作りだぞ! オレの華麗な包丁さばきを見せる時が来たな!」
「清次郎くん、今日作るのは焼き菓子ですから、計量や混ぜる作業がメインです。包丁の出番はほとんどないと思いますよ」
「なにっ!?」
ガーンと目に見えてショックを受ける清次郎くんの姿に、私と心乃ちゃんは思わず顔を見合わせて吹き出した。
朝ご飯を食べ終えて廊下を歩いていると、私達の部屋から少し離れたドアの前で、二人の男性がいた。
そこにいたのは、カイジくんと清次郎くんの主治医である翔太先生だった。いつも白衣のポケットにトランプを忍ばせていて、私達を元気づけるために手品を見せてくれる、穏やかで優しい大人の一人だ。
けれど、今の翔太先生の顔にいつもの笑顔はなかった。
先生は廊下の冷たい床にぽつんと座り込み、きつく頭を抱えている大学生の史さんと向き合っている。
いつもは物静かでスマートで、私達下の子の面倒をよく見てくれる頼りになる史さん。そんな彼が、今は周囲の目も気にせず、まるで自分を世界から隠そうとするかのように、膝の間に顔を埋めて小さく丸まっていた。
翔太先生は彼を刺激しないよう、静かに、でもしっかりと傍らに寄り添い、低い声で何かを語りかけている。
「……史くん。ゆっくりで良いですよ。ここには、君を傷つけるものは何もありませんよ」
史さんの無事を心の中で祈りつつ、静かに足音を立てないようにして、私達はその廊下を通り過ぎた。
午後。
一階の調理室には、甘いバニラエッセンスの香りと、オーブンの予熱の温かい空気が満ちていた。
「計量は完璧です。清次郎くん、その小麦粉をゆっくり振るい落としてください」
「ふっ、任せるがいい! 我が右腕の神速の動きを見よ!」
「あ、清次郎くん、勢いよく振ったら粉が――」
ゴホッ、ゴホッ! と案の定、清次郎くんの周りが真っ白な煙に包まれ、カイジくんが眼鏡を真っ白にしながら静かに静止する。
「やっぱりこうなるじゃん!」
心乃ちゃんがボウルでバターを練りながら大笑いし、私も泡立て器を手にゲラゲラと笑った。
「理世、次それ混ぜてー!」
「うん、任せて!」
私は泡立て器をぎゅっと握り直し、心乃ちゃんから引き継いだボウルの中身を勢いよくかき混ぜ始めた。
白っぽく練り上げられたバターと砂糖に、溶き卵が少しずつ馴染んでいく。調理室の中にふんわりと広がる甘い香りが、鼻腔を優しくくすぐった。
「そんな勢い良く混ぜたら飛び跳ねるよ」
「あ、史さん……!」
思わず動かしていた手を止め、目を丸くして見上げる。
そこには、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、エプロンをきっちりと身につけた史さんが立っていた。
午前中に廊下で見かけた、あの小さく丸まっていた姿が嘘のようだ。まだ少しだけ顔色が白い気もするけれど、OTにいるってことは主治医である翔太先生の許可が下りているということなのでマシになったのだろう。
「史さん!復活したのか!」
清次郎くんが嬉しそうに、小麦粉で真っ白な手をぶんぶんと振る。
「うん、もう大丈夫だよ。あと清次郎くんは手袋はめようね」
「あ、そうだったな!」
清次郎くんはハッとしたように自分の真っ白な手を見つめ、調理室の隅にある衛生手袋のボックスへとバタバタと走っていった。
「史さん、本当に大丈夫ですか?無理はしないでくださいね」
カイジくんが白衣の袖を軽くまくり上げながら、少し心配そうに史さんの様子を窺う。
目が覚めた瞬間、全身に鉛でも埋め込まれたかのような重みを感じた。
「いったぁ……」
声を漏らしながら腕を持ち上げただけで、肩の筋肉がピキッと悲鳴を上げる。
足も痛い。 腰も痛い。普段どれだけ運動していないのかを思い知らされるような筋肉痛だった。
カーテンの隙間から差し込む朝日をぼんやり眺めながら、私はしばらくベッドの上で現実逃避をする。
下のベッドから、もぞ……もぞ……という不穏な物音が聞こえる。
「……心乃ちゃん?」
恐る恐る覗き込むと、そこには毛布にくるまったまま、じわじわと起き上がろうとしている心乃ちゃんの姿があった。
「……」
無言。
しかし顔は真剣そのものだ。
両腕でベッドの縁を掴み、腹筋に力を入れて上半身を起こそうとしている。
だが。
途中で力尽きた。
ぼすっ。
再び布団へ沈む。
「よし、今日は爆睡しよう」
「そうだね!食堂に行かなかったらご飯は部屋まで運んでくれるしね」
私が力強く頷くと、心乃ちゃんも毛布の中から親指だけを突き出した。
「採用」
満場一致である。異議を唱える者はこの部屋に誰もいなかった。
そのまま二人して、それぞれのベッドから動くことなく天井を見上げる。
開いた窓から流れ込む風が心地よく、鳥ののどかな鳴き声が遠くで聞こえる。昨日の波の音が嘘のようだ。なんて平和なんだろう。
「ねぇ、心乃ちゃん」
「なんぞ」
「あの二人も筋肉痛になってると思う?」
「思わん」
「だよねー」
そんな他愛のない確信を口にしつつ、心乃ちゃんが最近ハマっているという最新のメイクや、次に挑戦したい髪型の話に花を咲かせる。
痛みを忘れて女子トークに没頭していると、コンコン、と部屋のドアが軽快にノックされた。
「おはよう。二人とも朝だよー」
職員さんが私達を呼びに来てくれたが、私達は今起きれる状態じゃない。
職員さんはベッドの上で転がっている私達を見て、状況を一瞬で察したらしい。
「海、楽しかったもんねぇ。私も行きたかったなー」
「昨日は夜勤でしたもんねー」
「そーだよー。そうだ、二人とも、朝ご飯どうする? 食堂まで降りてこられそう?」
「「部屋で」」
私と心乃ちゃんの息は、この時ばかりは見事にぴったりと合った。
「オッケーイ。じゃあ少し待っててね」
そう言って笑う職員さんの足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私達は再び、深い二度寝の幸福へと沈んでいった。
✳✳✳
どれくらい心地よく眠っていたのだろう。
次にスッキリと目が覚めてみると、あんなにガチガチだった筋肉痛の痛みが、不思議と少しだけ引いていた。
それと同時に、お腹の虫が「ぐぅ」と情けない音を立てて主張し始める。ふと耳を澄ますと、下からカチャカチャと静かな金属音が聞こえてきた。
ベッドから下を覗き込むと、部屋の小さなミニテーブルの上には、いつの間にか二つのトレイが置かれていた。そして、その片方の前には、すでに寝癖を少し直した心乃ちゃんが座っている。
お腹の空き具合がいよいよ限界だったので、私は手すりを掴みながらゆっくりとハシゴを下り、心乃ちゃんの向かい側に腰を下ろした。ストローでコーヒー牛乳を飲んでいた心乃ちゃんが、ズズッと音を立てて顔を上げる。
「起床」
「おはよー」
トレイの上には、シンプルな食パンといくつかのジャム、そしてフルーツ。
私はさっそくパンの袋を開け、付属のいちごジャムを絞り出して塗りつける。カリッと焼かれたトースターが欲しいというのが、ここ最近の私達の密かな悩みだった。
「心乃ちゃん、バナナあげる」
フルーツとして付いてきているバナナを心乃ちゃんのお盆の上に置いた。
「ありがたき幸せ」
心乃ちゃんはコーヒー牛乳のパックを置くと、時代劇の家臣のように恭しく両手でバナナを受け取った。
「私の分のジャム、そっちに召喚していいよ。今日はバナナ一本勝負にするから」
「わーい、ありがとう! いちごジャム二倍は贅沢すぎる」
トーストされていない食パンは少しパサついていて物足りないけれど、こうしてジャムをこれでもかと贅沢に、厚塗りにすれば一気に特別感が増す。
「そんな塗ったら甘すぎでしょ」
心乃ちゃんが尋ねると、私はパンの表面を真っ赤に染め上げながら首を横に振った。
「焼かれてない食パンをかじるよりはマシだよ〜」
「まぁ、それは確かに」
そんないつもより少し遅めの朝食の時間を過ごしていると、突如、ノックもなしにバーンと勢い良くドアが開け放たれた。
「お、なんだ。まだ食べていたのか!」
「食堂にいませんでしたので、もしかしたらと思い、様子を身に来たんですけれど......大丈夫そうですね」
眩しい笑顔で立ちはだかる清次郎くんと、その斜め後ろから苦笑いを浮かべるカイジくんだった。
「うわっ、びっくりした!」
私がジャムのついた袋を持ったまま固まると、心乃ちゃんは手元のバナナで二人に向けて差した。
「ここ女子部屋。ちゃんとノックしろー」
「そーだ、そーだ」
「生存確認するために急いでいたからな、忘れてた」
清次郎くんは全く悪びれる様子もなく、腰に手を当てて快活に笑った。
その一方で、後ろに控えるカイジくんは「ごめんね。一応止めたんですけど……」と、申し訳なさそうに困り眉で頭を掻いている。
「まったく、主君たるオレがわざわざ様子を見に来てやったのだ。二人は光栄に思うがいい!」
「いや、ノックは社会の基本ですよ、清次郎くん」
カイジくんがため息をつきながら、開け放たれたドアの隙間をさりげなく自分の体で遮るようにして立つ。その肩の上では、ニュートンが眠たそうにギョロリと目を動かしていた。
「あ、カイジくん、ニュートンは筋肉痛になってない?」
「カメレオンの筋肉痛は聞いたことがありませんね。ただ、昨日は慣れない外の空気に緊張していたみたいで、部屋に戻ってからは僕のベッドの上でずっと丸くなっていました」
カイジくんはそう言って、ニュートンの小さな頭を人差し指でそっと撫でる。
昨日の砂浜での緊迫した瞬間――あの、クラスメイト達とすれ違ったときの冷たい空気。それは今、この狭い女子部屋に漂うパンの甘いジャムの香りと、みんなの呆れたような笑い声の中に、嘘みたいに溶けていく。
「今日は午前中が自由時間で、午後からお菓子作りだぞ! オレの華麗な包丁さばきを見せる時が来たな!」
「清次郎くん、今日作るのは焼き菓子ですから、計量や混ぜる作業がメインです。包丁の出番はほとんどないと思いますよ」
「なにっ!?」
ガーンと目に見えてショックを受ける清次郎くんの姿に、私と心乃ちゃんは思わず顔を見合わせて吹き出した。
朝ご飯を食べ終えて廊下を歩いていると、私達の部屋から少し離れたドアの前で、二人の男性がいた。
そこにいたのは、カイジくんと清次郎くんの主治医である翔太先生だった。いつも白衣のポケットにトランプを忍ばせていて、私達を元気づけるために手品を見せてくれる、穏やかで優しい大人の一人だ。
けれど、今の翔太先生の顔にいつもの笑顔はなかった。
先生は廊下の冷たい床にぽつんと座り込み、きつく頭を抱えている大学生の史さんと向き合っている。
いつもは物静かでスマートで、私達下の子の面倒をよく見てくれる頼りになる史さん。そんな彼が、今は周囲の目も気にせず、まるで自分を世界から隠そうとするかのように、膝の間に顔を埋めて小さく丸まっていた。
翔太先生は彼を刺激しないよう、静かに、でもしっかりと傍らに寄り添い、低い声で何かを語りかけている。
「……史くん。ゆっくりで良いですよ。ここには、君を傷つけるものは何もありませんよ」
史さんの無事を心の中で祈りつつ、静かに足音を立てないようにして、私達はその廊下を通り過ぎた。
午後。
一階の調理室には、甘いバニラエッセンスの香りと、オーブンの予熱の温かい空気が満ちていた。
「計量は完璧です。清次郎くん、その小麦粉をゆっくり振るい落としてください」
「ふっ、任せるがいい! 我が右腕の神速の動きを見よ!」
「あ、清次郎くん、勢いよく振ったら粉が――」
ゴホッ、ゴホッ! と案の定、清次郎くんの周りが真っ白な煙に包まれ、カイジくんが眼鏡を真っ白にしながら静かに静止する。
「やっぱりこうなるじゃん!」
心乃ちゃんがボウルでバターを練りながら大笑いし、私も泡立て器を手にゲラゲラと笑った。
「理世、次それ混ぜてー!」
「うん、任せて!」
私は泡立て器をぎゅっと握り直し、心乃ちゃんから引き継いだボウルの中身を勢いよくかき混ぜ始めた。
白っぽく練り上げられたバターと砂糖に、溶き卵が少しずつ馴染んでいく。調理室の中にふんわりと広がる甘い香りが、鼻腔を優しくくすぐった。
「そんな勢い良く混ぜたら飛び跳ねるよ」
「あ、史さん……!」
思わず動かしていた手を止め、目を丸くして見上げる。
そこには、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、エプロンをきっちりと身につけた史さんが立っていた。
午前中に廊下で見かけた、あの小さく丸まっていた姿が嘘のようだ。まだ少しだけ顔色が白い気もするけれど、OTにいるってことは主治医である翔太先生の許可が下りているということなのでマシになったのだろう。
「史さん!復活したのか!」
清次郎くんが嬉しそうに、小麦粉で真っ白な手をぶんぶんと振る。
「うん、もう大丈夫だよ。あと清次郎くんは手袋はめようね」
「あ、そうだったな!」
清次郎くんはハッとしたように自分の真っ白な手を見つめ、調理室の隅にある衛生手袋のボックスへとバタバタと走っていった。
「史さん、本当に大丈夫ですか?無理はしないでくださいね」
カイジくんが白衣の袖を軽くまくり上げながら、少し心配そうに史さんの様子を窺う。


