〝都合のいい妻〟をやめさせていただきます。
「……どうして、旦那様とセリーナが?」
無慈悲な宣告を受けてから、しばらく思考が止まっていたミスリアの口から、ようやく声が零れ落ちた。
セリーナはちらりとロベルトを見上げただけで、自分から説明する気はないらしい。
代わりに、ロベルトが淡々と口を開く。
「……この一年、セリーナは頻繁に君の部屋に来ていただろう。君が彼女に愚痴を吐いていたのも知っている。……実は俺も、手が空いた時は、彼女によく相談していた。夫婦関係についてな」
ロベルトは、まるで業務報告でもするかのように、冷静に説明を続けた。その一言一言が、ミスリアの心臓を内側から抉っていく。
(愚痴なんて言い方が悪いわ。私はただ、不妊のことで本気で悩んでいただけ。それなのにどうして、間違ったふうに受け取られているのかしら……?)
はっとしてセリーナを見ると、彼女は気まずそうに視線を逸らした。その仕草だけで、ミスリアは察してしまう。
セリーナはミスリアの相談に乗りながら、その裏で――ロベルトとの距離を縮めていたのだと。しかも、ミスリアが愚痴を吐いているなんて嘘までついて。
(本当は、私に会いに来ていたわけではなかった……? 旦那様に会うために、だから〝いつでも呼び出してください〟なんて、そう言ったのね?)
王家御用達の薬師といえど、呼び出しがなければ王宮に立ち入ることはできない。だからこそ、そう考えざるを得なかった。
だってもし、本当に自分のことを想ってくれていたのなら……。
(人の夫と不倫なんて――絶対にしないはずだもの)
どれがほど悩み、弱っていたかを、目の前で見て誰より知っていたはずなのに。
そのすべてを知ったうえで、今こうしてロベルトに寄り添っているセリーナの姿を見ていると吐き気さえする。
「相談に乗ってもらううちに、セリーナといると癒されることに気づいた。親しくなってからは時間も経っているが、俺から気持ちを伝えたのは、つい三か月ほど前だ」
こちらの気持ちも知らず、ロベルトが追い打ちをかけてくる。
遠回しな言い方をしているが、要するに、三か月前には互いに同意のうえで関係を持っていたということだ。
ミスリアが不妊に悩み眠れず、ひとりで天井を見つめていた夜も……その間、ふたりはどこかで愛を囁き合っていたのだろう。
その結果――セリーナは、あっという間に身籠った。
ミスリアがどれほど願っても手に入らなかった、ロベルトとの子供を。
「これは俺が選んだ道だ。だから、セリーナを責めるのはやめてくれ。彼女は妊娠して、精神的にも不安定だ。これからは俺は彼女のそばにいる時間が増えるだろうが、理解できるよな?」
壊れものを扱うように、ロベルトがセリーナの腰に手を添える。
その光景を前に、ミスリアは言葉を失った。
――長年、彼を支えてきた自分ではなく、彼が守ろうとしているのはべつの女性だと思い知らされたからだ。
(……旦那様にも、誰かを支えたいと思う心があったのね)
そして、それを向けられなかった自分に、勝ち目など最初からなかった。
あれほど自己愛が強く、自分第一だったロベルトを、ここまで変えたセリーナ。
それは魔力でも、身分でもない。男性の庇護欲を掻き立てる、女性としての魅力なのだろう。
そんなもの、ただ支える役に徹してきたミスリアは、いつの間にか忘れていた。……否、最初から、持っていなかったのかもしれない。
「旦那様。それでしたら、愛人ではなく彼女を正妻にしたほうがよろしいのでは……」
「いいや」
言い終える前に、ロベルトが遮った。
「正妃は君のほうが相応しいだろう。オリオル家との関係もある。感情だけで離縁などするものか」
……つまり、世間体を考えれば、ミスリアが正妃でいるほうが都合がいいと言いたいのだ。
「ロベルト様……私……」
「セリーナ、君はなにも気にするな。俺の子を産んでくれる君を、誰も悪いようにはしない」
不安げなセリーナを、ロベルトが優しく抱き寄せる。
――彼らは本気なのだろう。
この状況でなお、目の前にいる正妻を顧みることもなく、互いだけを見つめ合う視線。それを見た瞬間、ミスリアは気付いてしまった。
ふたりはただ子を作るためではなく、愛し合ったうえで結ばれたのだということを。
エルシオンでは、男性が愛人を作ることは許されている。だが、女性が愛人を持つことは、決して許されない。
(旦那様とは〝愛〟ではなくても、〝情〟で繋がっていると思っていた)
まさか結婚して三年で愛人を作られるなんて、思ってもいなかった。
この先、ミスリアはたとえ夫に愛されず、子を産めなくとも、これからも正妻として在り続けねばならない。愛人を作られた哀れな正妻として、王宮で過ごすこととなる――。
「話は終わりだ。セリーナもまだ混乱している。君はもう席を外してくれ」
最初から最後まで、一方的に突きつけられた最低最悪の時間が終わりを告げる。
「………………失礼します」
長い沈黙の末、ミスリアはそれだけを告げて部屋を後にした。
ミスリアとの話し合いが終って間もなく、セリーナが王太子との子を身籠ったことが公にされた。
人々は誰もふたりを責めずに――むしろ、祝福の声が上がった。
「ついに殿下の子供が見られるのか!」
「相手は薬師だが、商人貴族令嬢だ。周りからの評判もいい」
「むしろよくやったわよ。……王太子妃殿下は、二十三歳にもなってずっと妊娠できなかったのだから……」
愛人を作られたのは、妊娠しなかったお前のせいだ。
王宮のどこを歩いていても、自分に突き刺さる眼差しがそう語っている。
「でも――ミスリア様が本妻のままなんだろう?」
「それは殿下の優しさもあるさ。彼女の体裁や居場所を考えたに違いない」
「さすがロベルト殿下だ、慈悲深い!」
あちこちから聞こえるそんな言葉に、ミスリアはため息をつく。
(……本当に優しい人は、不倫なんてするのかしらね)
セリーナが愛人となり、王宮に住みつくようになってから二週間が経った。
自室から一歩でも出たら、憐れみ、蔑み……あらゆる目を向けられ、ミスリアは肩身の狭い思いをしていた。
環境が大きく変わり、地獄のような日常だったが、そんなのは序章にすぎなかった。
「失礼いたします」
ミスリアは仕事で必要な書類を取りにロベルトの執務室へ向かうと――そこには、仕事をほったらかしてソファでセリーナにつきっきりになっているロベルトの姿があった。
「セリーナ、具合は大丈夫か?」
「はい。なんともありません」
まだ少しも膨らんでいない腹を撫でながら、ロベルトはセリーナに寄り添い、彼女もまた甘えた声と表情でぴったりと寄り添っている。
(本当に、四六時中一緒にいるわね。私が妊娠しても、旦那様はここまでしなかったに違いないわ……)
男が女に尽くすなど、この国ではありえない。
ましてや王太子という立場なら、もっとありえない。
それなのにこの二週間、ロベルトはセリーナに付き添い、甘やかし、彼女を労わり続けている。これには、王宮中の人間が驚いていた。
そして、そうさせているセリーナは愛人でありながら相当ロベルトに愛されているというのも、この二週間で周知の事実となっている。
「……旦那様、お任せしていた書類は?」
「ああ……いたのか、ミスリア」
扉の前に立ち尽くすミスリアを見て、ロベルトは煩わしそうに眉をしかめる。
セリーナは動じることもせず、見せつけるようにロベルトとさらに距離を詰めて、ミスリアなど知らんふりだ。
(愛人になってから、セリーナはずいぶんと私に対する態度が変わったけれど……それとも、今のあなたが、本当の姿だったの?)
それを問いかける機会がないほど、彼女はロベルトという優しい籠の中で守られている。ミスリアもまた、実際に聞く気もない。
彼女とこれ以上関わっても、よけいにストレスが溜まるだけ。
できるだけこのふたりを視界に入れず、忙しくして、無駄なことを考えないようにする。
それが、現状の自分を守る最適な方法だと考えていた。
「書類はまだ目を通せていない。君がすべて処理してくれないか」
顎でデスクにたまった書類を指しながら、ロベルトはそう言った。
「私がですか?」
「そうだ。どうせやることがなくて、時間を持て余しているだろう」
一瞬、言葉に詰まる。やることがなくて時間を持て余している――そんな評価をされる覚えはない。
本来、王太子妃の務めは多岐にわたる。
各部署から上がってくる報告書の確認、王族として出席すべき式典の準備、貴族夫人たちとの社交ももちろん、慈善事業にも携わっている。
それに加えて、ロベルトが放置してきた書類の整理や決裁の準備も、いつの間にかすべてミスリアの仕事になっていた。
結婚してからずっと、一生懸命それらをこなしてきたのだ。
それでも、誰かに褒められることはない。〝妻だから当然〟〝王太子妃の務め〟女の役目〟だと言われればそれまでだ。
「……承知いたしました」
書類を抱えて廊下に出ると、すれ違った使用人のひとりが、はっとしたように声をかけてくる。
「ミスリア様……!」
「あら。シェリーじゃない。どうしたの?」
彼女は侍女の中では、ミスリアと親しい位置にあたる。
元々ミスリアの世話を担当する内のひとりだったが、二週間前に、セリーナの担当に移ってしまった。
それから顔を合わせることもほとんどなくなったため、久しぶりの再会にミスリアは喜びを感じていたが――。
「ミスリア様……あ、あの……! セリーナ様のご体調は、その……大丈夫なのでしょうか? 妊娠中で、精神的にも不安定だと伺って……」
彼女から真っ先に出て来たのが、ミスリアを労わる言葉でも、慰めでもなくセリーナの名前だった。あまりに予想外で、瞬きも忘れて啞然としてしまう。
「なぜ、私に聞くのかしら? シェリー、あなたは今、セリーナの世話を任されているのでしょう? だったら私より現状を知っているはずよ。それに……旦那様が空いている時間はずっとそばにいるのだから、平気だと思うわ」
「いえ、あの、その……セリーナ様が……ミスリア様に睨まれたと、今朝、少し怯えていらしたので……」
「……睨まれた?」
問い返す声は、自分でも驚くほど静かだった。
「い、いえ……! なんでもございません! ただ、セリーナ様はとても繊細なお方ですから……! 事実はどうあれ、どうか、ミスリア様がこのようなことでご評判を損なわれませぬよう……私はそれが心配で……」
シェリーが慌てて誤魔化す姿を見て、その言葉の裏にあるものを、ミスリアはすぐに理解してしまう。どう考えたって、彼女はミスリアの心配などしていない。
――正妻に怯える、けなげな愛人。
知らぬ間にそんなイメージが、セリーナを取り巻く連中の間で出来上がっているのだ。
薬師のセリーナは、たびたび王宮を訪れていたこともあり使用人たちの顔なじみだった。穏やかな物腰で、誰にでも分け隔てなく接し笑顔を向ける。
もともと評判高い彼女が信頼を集めるのは容易いだろう。なんといっても、自分も信頼してしまったひとりなのだから。
(その一方で、私は――いつも忙しなく動いて、余裕すらない女……そんなふうに映っていたのでしょうね)
たった二週間しか担当していない愛人を、自分より心配している。シェリーと築いた親交は、きっとその程度だったのだろう。
「ご心配ありがとう。でも、私は彼女を睨んだ覚えはいっさいないわ」
それだけ告げて歩き出す。
歩きながら、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。
(もう、王太子妃なんて肩書だけね)
居場所も、誰かからの信頼も、少しずつ確実に奪われている。
持っている書類が、心なしか先ほどよりも重く感じた。