〝都合のいい妻〟をやめさせていただきます。
――それからさらに一週間後、辺境地で瘴気が発生し、魔物が群れをなして出現したとの報告が入った。
当然、魔物となればロベルトは現場へ向かうこととなる。魔物討伐は彼が唯一、国民に自らの力を示せるものだ。今回も、精鋭部隊を従えての討伐となるが、みんなが期待するのはロベルトの圧倒的な魔力である。
「旦那様、加護の儀式の準備をお願いいたします」
ロベルトが王宮を出る直前、ミスリアはいつもと同じ言葉をかけた。
「……いいや。今回は君の加護は必要ない。セリーナの加護があればじゅうぶんだ」
(……え)
この瞬間、婚約してから初めて、ミスリアは加護の儀式を断られた。
セリーナもミスリアほどではないが魔力は持っている。そして魔力がある女性ならば、その力量は関係なく加護は誰でも与えられる。
「さあセリーナ、俺に加護を与えてくれ」
ロベルトの視線が、ミスリアの背後を捉えている。
振り向けばセリーナが立っており、ミスリアの横を素通りして、ロベルトと向かい合った。
「ロベルト様、私の加護を受け取ってください。どうか、無事に帰ってきますように」
セリーナの小さな手が、ロベルトの大きな手に触れる。
小さな虹色の光が浮かび、ミスリアの目の前で、加護の儀式は行われた。
周囲にはこれからロベルトに同行する騎士や、見送りの使用人たちがずらりと並んでいる。
公衆の面前で夫が正妻の加護を断り、愛人の加護を選んだ。
それはミスリアの立場を軽んじている、なんて言葉では済まされないほど非道な行為といえる。さらに言うと、それを誰も咎めようとしない。
「……ああそうだ、ミスリア」
なにかを思い出したかのように、ロベルトがミスリアを振り返りこちらに近づいてくる。
「俺のデスクに積んである書類、頼んだぞ」
小声で囁かれたのは、そのたった一言だけ。
「セリーナ、行ってくる。君はおとなしくしていろ」
「はい! ロベルト様!」
戦場へ向かう夫が、微笑みながら手を振る――その視線が向けられているのは、セリーナだ。
正妻であるミスリアに残していったのは、仕事を押し付けるための事務的な指示だけ。
(もう私の加護は、必要ないってことね……)
加護を断るということは、この国で育った女性にとって、支える役目自体を拒まれるのと同義だった。
夫のために魔法を使えと教えられてきた。
それを「いらない」と言われるのは――自分という存在そのものを否定されたに等しい。
……セリーナが来てからというもの、ミスリアは妻としての扱いすら受けていなかった。
(女性として旦那様に愛されたいなんて思ったことはない。今後も、微塵も思わないわ。……だとしても)
ずっと王太子妃として生きていくのなら、その立場に見合う意味や、報われる瞬間が少しくらいあってもいいのではないか。
ミスリアには、味方と呼べる者が誰ひとりいない。
どれほど働いても、誰もその努力を見ようとしない。見られるのは、愛人に子供を作られた哀れな正妻という側面だけ。
誰ひとり――自分という人間を、きちんと見てはくれない。
(……それなら、私の幸せは、いったいどこにあるの?)
そもそも、ミスリアにとっての幸せはなんだったのか。
ふと、視界がじわりと滲んだ。ミスリアは反射的に上を向く。
気づけば、見送りに来ていた人々は消えていた。玄関先にぽつんと、ミスリアだけが残されている。
それでも泣いてはいけない。誰も見ていなくても。一度泣いてしまえば――もう、立ち上がれなくなる。
「……これ、どうぞ」
唐突に声をかけられ驚いて振り向くと、見知らぬ男が立っていた。紫がかった銀髪を揺らし、菫色の瞳が、真っ直ぐにミスリアを捉えている。
王宮で見かけるどの貴族とも違う、どこか浮ついていて、掴めない雰囲気を持つ華やかな男だった。
「泣いているのかと思って」
そう言って差し出された白いハンカチを見て、ミスリアは一瞬だけ目を瞬かせる。
「……泣いていません」
視界が滲んだが、一粒たりとも涙を流していない。きっぱり言うと、男は少しだけ目を見開いた。そして次の瞬間、ふっと息を吐くように笑った。
「そうですね。泣いていない。失礼しました」
男はハンカチを引っ込める。
自分を嘲笑いにきたわけでも、慰めにきたわけでもなさそうだ。不思議で独特な空気を持つ男に、ミスリアは軽く一礼を返す。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。……では、私はこれで」
「あ、お待ちください」
手首を掴まれ、そのまま右手を取られる。
「泣きたくなったら、いつでも僕を呼んでください。王宮には、最近よく仕事で足を運んでいるのです」
「……仕事?」
「はい。僕は占い師なんです」
(……占い師)
エルシオンでは、ここ数年で占いが流行している。
特に、女性の間で占い師というのはとても高い需要がある。
……というのも、エルシオンでは、女性は公に意見を言いづらい環境にある。夫や恋人の不満となればなおさらだ。
そのため、悩みは打ち明けず耐えるもの、という風潮があった。
そういった社会で、占い師というのは、どんな話も聞いてくれる。
『今、こういう状況なのだけど、未来を見てほしい』
そういう前置きをして、状況説明と称して愚痴をこぼせる。相手も仕事なので、親身に聞いてくれる。それは、彼のような男の占い師であってもだ。
言うならば、エルシオンで占い師の男性だけは、女性を軽く扱わない存在。鑑定料は安くはないが、身分の高い女性からの人気は絶えないと聞く。
「いえ、私、占いはちょっと……」
ミスリアは占いと聞いて、苦い記憶を思い出した。
半年ほど前だろうか、不妊に悩んだミスリアは、こっそり藁にも縋る思いで占い師を頼った。
ミスリアが選んだのは同性の占い師だったが、彼女はこう言った。
『今年こそ子宝に恵まれて、幸福な未来が待っている』――と。
その結果がこの現状だ。もう占いはこりごりだと、そう思っていた。
「占いにもいろいろありますよ。占いしかしないものもいれば、ただ話を聞いてあげる――そういうのを得意とする占い師もいる。もちろん、そういった場合でも望まれれば占いもやりますが」
(……これだけ整った顔をしていて、優しく話を聞いてくれるとなれば、王宮に顧客を抱えるくらい人気はありそうね)
ミスリアのエメラルドグリーンの瞳は、まじまじとその男を見つめている。
「どうですか? 僕ならきっと、あなたの役に立ちますよ」
「いいえ。結構です」
「では、僕の腕を信用してもらうために、少しだけあなたのことを占ってもよろしいですか?」
(……なかなかしつこいわね)
引かない相手に、ミスリアはこの場を収めるためだけに頷いた。すると、男はミスリアをじっと見つめて、ゆっくりと口を開く。
「たとえば――あなたは、特別な力を持っていますね?」
「……え?」
「そしてそれに、自分でも気付いていない」
なにを言っているのだろう。呆気にとられていると、男はぐっと距離をつめてきた。
「……続きを知りたければ、ぜひ今度――またお会いしたいです。王太子妃殿下」
甘く囁くような声が耳朶を撫でる。ミスリアははっと我に返り、手を引いた。
「し、失礼いたします」
男の横をすり抜けて、ミスリアは足早にその場を離れた。