〝都合のいい妻〟をやめさせていただきます。

「ねえ、聞いた? 王太子妃殿下が、セリーナ様に加護の儀式をさせるなって言ったそうよ」
「ロベルト殿下に、殿下の不調はセリーナ様のせいだって訴えたらしいな」
「自分が特別だと勘違いしてるんだろ。女のくせに、ずいぶん厚かましい」
「前から妬んでたのよ。愛されているのが、よほど我慢ならなかったんでしょう」
「正妻の立場で、儀式を横取りされたら……まぁ、気が狂っても不思議じゃないわね」

 ひそひそと交わされる声は、廊下を渡り、扉を越え、いつの間にか形を変えていった。
 ミスリアが口にした慎重な提案は、セリーナに対するいじめと妬みとして語られていく。
 気づけば王宮の中でミスリアは、夫の不調を愛人のせいにし加護を独占しようとした、嫉妬深い悪女に仕立て上げられていた。
 弁解する場などない、聞いてくれる人もいない。
 ただただ毎日――積み上げられていく書類を黙ってこなしていくだけ。

(これ、旦那様の押印が必要だわ……)

 期限が迫っている書類に不備を見つけ、重い足取りでロベルトの部屋へ向かう。

(はぁ。行きたくない)

 かつては、ロベルトのもとを訪ねるのが、楽しみで仕方がなかった時もあった。彼の部屋で笑い合い、国の未来を語り合った日もある。
 得意の生活魔法を存分に使い、ロベルトの部屋の環境を整えるのは、ミスリアの日課だった。
 ……それがこんなふうになるなんて。
 どこで間違えたのか、最初から間違えていたのか、答えはわからない。

(さっさと離縁してくれたら、私もラクなのに)

 そう思わずにはいられなかった。加護を断られたあの日に、ミスリアの中で微かに残っていたロベルトへの情は、きれいさっぱり消えている。
 正直今だって、どうしてこちらから出向かなくてはならないのかわからない。

「……王太子妃殿下!」

 すると突然、背後から声をかけられた。
 今のミスリアに声をかけてくるなんて、いったい誰なのか。そう思い振り向くと、そこには以前出会った占い師の男が立っていた。

「……あなたは」
「またお会いできて嬉しいです。なにをしているのですか? 僕は今、占いの仕事を終えたばかりなんです」

 男はそう言いながら、すぐにミスリアの近くに寄ってきた。

「そうですか。私はまだ仕事中です」
「では、終わったら少し僕とお話しませんか?」

 なにを話すのか。
 王都に広まっている噂を聞いて、自分がいいカモになると踏んでいるのかもしれない。
 愛人を作られ、悪女とまで呼ばれるほど成り下がった王太子妃――相当な不満を抱えていると思われても、不思議ではない。

「……いつ終わるかわかりませんので、お断りいたします」

丁重にお断りして、ミスリアは先を急ぐ。
しかし、なぜか男も後を追ってきた。隣に並ばれて困りつつも、ミスリアは歩く速度を落として男の後ろに下がる。
 エルシオンでは、女性は男性の後ろを歩けと教えられてきたからだ。それなのに、なぜか男はミスリアの歩幅に合わせて歩いてくる。

(前を歩いてほしいのだけれど)

 しかし、向こうも王太子妃の自分に敬意を示しているのかもしれない。
 仕方なく無駄な抵抗をやめると、ミスリアは男を見上げた。

「なぜ、私についてくるのですか?」
「……いけませんか? せっかくお会いできたのです。目的の場所に見送るくらいはさせていただきたい」

 無駄に妖艶に微笑まれ、ミスリアはサッと視線を逸らした。

「私、あなたに占いを頼むことはございません」
「べつにそれでも構いませんよ。それに王太子妃でしたら、頼まれても無料で鑑定いたします」

 最初は無料と言って、あとから大金をふんだくるつもりなのか。
 疑念が拭えないまま腹の探り合いをしていると、いつの間にかロベルトの執務室に到着していた。

「着いたので、ここまでで結構です」

 占い師に別れを告げて、ミスリアは扉をノックするため右手を上げる。するとその瞬間――中からセリーナの声が聞こえて来た。

「ロベルト様、どうしてミスリア様と離縁しないのですか?」

 どくんと、心臓が大きく脈打つ。

「決まっているだろ。ミスリアは妻としては不要だが、王妃としては都合がいいからな」

 笑いを含んだ声が、扉越しに響く。

「エルシオンの女でも、あれだけ従順で便利なやつは珍しい。手放す理由がない。それに――ミスリアに王太子妃の仕事を任せれば、セリーナは子育てと俺に集中できるだろう」
「まあ、ロベルト様ったら」

 くすくすと笑うセリーナの声が重なる。

(どうせ、そんなことだろうと思っていたわ)

 この瞬間、ミスリアははっきりと確信する。なぜロベルトが、頑なに自分を正妻の座に置き続けるのかを。
 世間体を気にするにしても、ロベルトの現状を見れば、世間体を投げ出してでも愛を選びそうなほどセリーナに焦がれているのがわかる。
 離縁は容易いことではないが、セリーナは王太子の子を身籠っている。一方で、ミスリアは結婚してから数年間、それが叶わなかった。
 その事実があれば、セリーナを正妻にするのは難しくないはずだ。……それでもそうしないのは。

(ただ私が……王太子妃として都合がいいから)

 ロベルトにとって自分は、もはや便利な駒にすぎない。
煩雑な政務も、終わりのない書類も、すべて押しつけておけばいい。そうしていても表では、〝子を成せなくても妻を見捨てない誠実な王太子〟と称えられる。

「でもミスリア様ったら、加護の儀式に相当執着していたんでしょうね。だって、ロベルト様に魔法のことで意見するなんて……同じ女性として、信じられません」
「あいつは昔から、女のくせに妙に魔法が好きでな。限られた生活魔法の本も何度も読み返していた。……オリオル侯爵から聞いた話だが、こっそり自分に関係のない魔法書を読んで、叱られたこともあるらしい」
(! ……お父様、よけいなことを……)

 あれだけロベルトに尽くせと言いながら、娘の評価を落とすような話をする。
 ミスリアは、そんな父親に心底呆れた。きっと、娘であろうとしっかり躾ができる立派な父親だと示したかっただけなのだろう。

「俺のために使う生活魔法にも、やたらこだわっていた。照明の色味だの、香りの調整だの、書類が捗る湿度管理だの……。俺は紅茶の温度にこだわりがあるが、練習したのか、なにも言わなくても正確に合わせるようになった時は、正直ぞっとしたな」
「嬉しくなかったのですか?」
「自分の有能さを、生活魔法で見せつけられている気分になった。俺に追いつこうと必死な姿が、だんだん滑稽に見えてきてな」
「女性は一歩引いて支えるべきなのに、ミスリア様は我が強いのですね。きっと、ロベルト様への敬意なんてないんです!」

 ――違う。そんなことはなかった。
 彼の魔法の才能だけは、心から尊敬していた。
 英雄と呼ばれる夫を、これからも英雄であり続けさせるために。夫が少しでもいい環境で暮らせるように――ミスリアは、教えられた通り、相手を支えたい一心で努力を重ねてきた。
 魔法が好きだったのは事実だ。魔法を使うのも楽しかった。
 それでも根底にあったのは、自分の魔法が誰かの役に立てばいいという、ただそれだけの思いだった。

(我が強かったら、今ここで大人しくしていないわよ)

 むしろ、誰よりもエルシオンの教えに忠実でいたのがミスリアだ。
 それなのに、自分のこれまでを全否定されている。

「そうだわ! ロベルト様、今後は私が全部、身の回りのお世話をいたします。生活魔法なら私にも使えます。ミスリア様みたいに完璧にはできませんが、支えたい気持ちは、私のほうが絶対に強いです!」
「それはありがたいな。まぁ、最近はあいつを部屋に入れていないから、ほとんど魔法は使わせていなかったが――セリーナがいれば、今後も必要ないか。それに……加護の儀式も、あいつには金輪際させるつもりはない」

 まだ根に持っているような、恨みのこもった声色だった。

「私がどうしても儀式ができなくても、ミスリア様には頼まないと?」
「ああ。自分の加護の力を過信していたのが、未だに腹が立つ。あいつには一生加護の儀式はさせてやらない。どうせ俺の妻でいる以上、ほかのやつにするのは不可能だからな」

 ミスリアは雑務と外交だけしていればじゅうぶんだと、ロベルトは鼻で笑った。

(……ああ、そう……旦那様は、私を一生この檻に閉じ込めるつもりなのね)

 そこには情も、感謝もない。
 ただ都合のいい王太子妃として、使い続けるだけ。
 一生、この生活を続けろと言うのか。
 これまで疑問を持たずにいた暮らしに、初めて疑問を抱いた。……自分はこのままでいいのかと。

「あの……王太子妃殿下」

 声が聞こえるまで、隣に占い師の男がいたことすら忘れていた。
 こんな惨めな場面を誰かに見られてしまうとは。ミスリアにとっても不覚だった。

「あなたはなにも聞かなかったことにしてください。私なら平気です」
「そうは思えません。……気付いていませんか?」
「……え?」

 男の指が、ミスリアの頬を撫でる。そこに、水滴の滑りを感じた。

「泣いておられますよ、王太子妃殿下」

 自分でも気づかないうちに、一筋の涙が頬を伝っていた。
 泣いてはいけないと思っていた。でも、いつから自分にそう言い聞かせるようになったのだろう。
 我慢できずに零れたった一粒に、自分がずっと苦しかったことを気づかされる。

「わ、忘れてください……!」

 気づけばミスリアは走り出していた。
 ただ、その場から離れたかった。でも、行く場所があるわけでもない。実家に逃げたって、すぐに連れ戻されるだけだ。

(いっそなにもかも捨てて、知らない場所に逃げてしまいたい)

 ミスリアは、日の暮れた誰もいない庭園でひとり立ち尽くしていた。
 夕焼け空の下で咲く花たちがあまりに綺麗で、どうしてかまた涙が出そうになる。すると、すっと見覚えのあるハンカチを差し出された。

「……あなた」
「どうぞ」

 当たり前みたいに後を追ってきたその男を見て、ミスリアはため息をついた。
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