〝都合のいい妻〟をやめさせていただきます。
「ずいぶん空気が読めないお方なのですね」
「言ったはずです。泣きたくなったら僕を呼んでくださいと」
「もう泣いていないわ」
「先ほどの涙の痕がついたままです」
それを聞いて、渡されたハンカチを受け取ると、ミスリアはぐいっと力任せに頬を拭った。
「……案外大胆ですね」
男は目を丸くしたあと、小さく笑う。
そしてにこにこと笑みを浮かべたまま、その場を離れようとしない。
「申し遅れました。僕はディランといいます。……よろしければ、王太子妃殿下の話をなんでも聞きますよ」
「……私の現状なんて、話さずとも知っているのでは? 噂は王宮中に蔓延(はびこ)っています。それに、さっきのふたりの会話をあなたも聞いたでしょう」
「僕は、あなたから話を聞きたいのです」
彼にはもう、ロベルトにも見せたことのない泣き顔まで見られてしまった。そう思うと、すべてを吐き出してもいいような気がしてきた。
一息ついてから、ミスリアはゆっくりと話し始める。
「……子供ができなくて、ずっと悩んでいました。セリーナは不妊の相談に乗ってくれて、私に親友みたいに優しくしてくれて……彼女を信じていたんです」
「ええ」
「だから……ふたりが関係を持っていると聞いて本当は……ショックでした」
一度話し出すと、言葉は湧き水のように溢(あふ)れ出てくる。それほどまで、ミスリアは我慢していたのだろう。
最近蔓延る、自分に対する悪評も、なぜそうなったかすべてを打ち明けた。
ディランは相槌を打ちながら、否定もせず、途中でなにかを挟んでくることもなく……ただ、ミスリアの言葉が途切れるたび、視線を逸らさずに待ってくれている。
「……ごめんなさい。喋りすぎてしまいました」
「いいえ。僕はいくらでも、何時まででも聞きますよ」
「ありがとうございます。……ふふ。占いが人気な理由がわかりました。心に溜め込むのは、体に毒ですね」
味方がひとりもいない状況下で、こうして話を聞いてくれるだけでもありがたい。
眉を下げて苦笑するミスリアに、ディランが気まずそうに口を開く。
「……あの、王太子妃殿下」
「なんですか?」
「僕がこの前、あなたに言った言葉を覚えていますか? 〝あなたは特別な力を持っている〟と、そう言いましたよね」
そういえばそんなことも言われたと、ミスリアは今さら思い出した。
「僕があんなことを言ったせいで、王太子妃殿下は、ロベルト殿下に加護の儀式の話を持ち出したのですか?」
「? いいえ。あれは、私なりに考えた末に出したひとつの予想に過ぎません。私があなたの言葉を鵜呑みにして言ったわけではありませんよ」
そもそも忘れていたくらいだ。もしかして、彼はこうなったのには自分にも責任があると勘違いして、気にかけてくれたのだろうか。
「残念だけれど……女の私に特別な力なんてない。そんなのは、自分がいちばんわかっているつもりです」
あの時は、もっと考えて発言をすればよかった。加護の相性なんて根拠のない話をロベルトが嫌悪するなんて、それこそ予想できたはずなのに。
「……いいえ。王太子妃殿下がロベルト殿下に仰ったことは、あながち間違っていないかもしれませんよ」
「……え?」
「これは僕の勝手な想像ですが、ロベルト殿下の特異の在り方は、少し妙だと思いませんか? ご本人の力だと、本当に言い切れるのでしょうか」
「どういうこと?」
「ロベルト殿下の不調は、王太子妃殿下の加護を授かっていないことが原因。……もしそうだとしたら、特別なのはあなたのほうかもしれません。僕の占いはよく当たるんですよ」
あっけらかんと語られる予想外の返答に、ミスリアは驚いて何度も瞬きをする。
「なにを言っているのですか? まさか、私が特異持ちだと? それはありえません。エルシオンでは、女性は特異に目覚めないと言われています」
「はい。でもそれは、この国の考えでしょう? 僕の国では、特異持ちは存在するという認識ですので」
「……えっと、ディラン様?」
先ほどからなにを言っているのかと、ミスリアは頭が混乱する。
「実は、僕はルクシアの人間なんです」
ルクシアというのは、エルシオンの隣国である。
大陸一の力を持つエルシオンとは対照的に、ルクシアは控えめな国だ。魔法使いがかなり少ないらしい。
魔力こそが価値基準の我が国では、男たちがルクシアを見下す風潮すらあった。
元々はエルシオンとひとつの大国だったが、魔法主義と思想の違いで分裂した――とも言われている。
「エルシオンへは、三か月ほど前に占いが流行っていると聞いて出稼ぎで来ました。活動しているうちに、貴婦人たちからこの国についていろいろと教えていただいたのです。そこで、ロベルト殿下が特異持ちだと知り興味を持ったのです。――その流れで、王太子妃殿下のことも知りたくなりました。完璧な王太子の妻は、どんな人なんだろうって。……でも」
途中まで話して、ディランは目を伏せる。
「あなたに近づけば近づくほど、僕は苦しくなりました。なぜ、こんな扱いを受けているのかと」
「……それは」
「たとえ特異を持っていなくとも、あなたは間違いなく、特別な人です。こんな場所に囚われ続けるべき人じゃない。あなたのような素晴らしい王太子妃殿下を悪女扱いするどころか、二度と加護の儀式をさせないなど……ロベルト殿下は大馬鹿者ですね」
彼にしては珍しい、蔑むような小さな笑いがこぼれる。その後、またいつもの柔らかな表情を浮かべ、こちらを見つめてきた。
「もしもの話はここまでにして……では――そろそろ占ってみますか?」
「え?」
「王太子妃殿下が〝ロベルト殿下と離縁した未来〟と、〝このままここに残った未来〟を」
「……そんなの、占わなくともわかります」
ロベルトのために、国を守るために、正妃として、求められる役目を果たすために。
どれだけ傷ついても、どれだけ否定されても、支え続けることが自分にとって幸せで、間違いのない人生だと思っていた。
(けれど――このまま王宮にいたって、私が守るべきものは、もうなにもない)
ここにいる限り、心を削られ、〝都合のいい存在〟として消費されていく。
「あなたが望んでいるのは、どちらの未来ですか?」
答えを知っているかのように、ディランが問いかけてくる。
……ここで嘘をつけば、きっと一生、自分に嘘をつき続けることになる気がした。
ミスリアは、真っ直ぐ彼を見つめて口を開く。
「そんなの、決まっています」
一度、覚悟を決めるように深く息を吸う。
「私、たった今決意しました。あの人とは絶対に離縁します。泣いている時間すらもったいないですね」
自分でも驚くほどすらすらと本音がこぼれた。
「さっさとここから出ていって、もっと自由に、好きに生きていきたいです」
そして一度言葉にすると、なぜか遠慮や怖いものがなくなっていく。
――もう、王太子妃なんてこりごり。
ずっと手に持ったままだったハンカチをディランに返し、そう呟くと、彼は呆気にとられた顔をしたあと、声を出して笑いだす。
「ふっ、ははっ……! 王太子妃殿下は、おもしろい方ですね」
「それって、褒められているのかしら」
「はい。普段は凛(りん)としていて強そうなのに、たまに不安定さを見せて……でも、やっぱり強い」
よくわからなかったが、彼はひとりで楽しそうにしている。
「僕も、あなたがこんな場所で無下な扱いを受けるのには納得できません。だから、王太子妃殿下の判断は正しいです。……しかしどうするのですか? あなたが離縁を口にすれば、ロベルト殿下は拒むでしょう」
「でしょうね。こんな都合のいい存在、手離せないに決まっています」
ミスリアは頷いた。
「でも、〝正妃がべつの男を選んだ〟となれば、話は変わるかもしれません」
「……どういう意味?」
「僕があなたの愛人になるんです」
(あ、愛人……!?)
さらりと自信満々に言ってのけるディランを前に、ミスリアは驚きを隠せない。
「なにを言って……あなたも知っているはずです。エルシオンでは、女性が愛人を作ることは許されていません」
「そういった暗黙のルールが存在するのはたしかですが、実際に愛人を作ってはいけないなんていう法律はなかったかと」
(! 言われてみれば……法律上で禁止されているわけではないわ)
それでも、女性が愛人を作ったなんて事例はこの長い歴史上一度もないのだ。法律にするまでもない決まり事。そういう認識だったため、敢えて法律化されなかった可能性も高い。
「それに――どこからどう見ても愛人だったとしても、認めなければいいんです」
ディランはあっさりと言ってのけた。
「僕は王都で、占い師として名をはせている。王太子妃殿下は、僕のいちばんのお得意様。そういう設定はどうでしょう。占いの相談という名目なら、いくらでも言い訳はできる。一緒にいるところを見られたとしても、僕は仕事の一環だと言い張ればいい。……これなら毎日僕を呼んだって、問題ありませんよ」
ミスリア側は彼を占いのために呼んでいる、あくまで〝客〟という立場を主張すれば、愛人と勘違いされようがどうにかなる。
「……私が王太子妃の務めをすべて放棄し、そのうえで公然とあなたを愛人にしたら――殿下にとって私は都合が悪い女では済まなくなる。王家……いいえ、ひとりの男としての威信を傷つけ、前代未聞の悪評を背負わせた正妻になりますね」
「その通りです」
ディランは即座に頷いた。
「殿下はとにかく周囲からの見られ方を気にするお方だ。そうなってしまったあなたを、正妻のまま置いておけるような性格ではありません」
その言葉に、ミスリアは何度も頷きたくなった。長年連れ添ってきたからこそ、その分析に疑う余地はない。
「すごいですね。もうそんなに殿下という人間を理解しているなんて……みんな綺麗なところしか見えていないのに」
「占い師は、人を見る目が優れていますから」
一方で――この作戦を実行すれば、王都どころか、下手したらこの国にミスリアの居場所はなくなるだろう。
愛人を持った王太子妃など前代未聞だ。非難され、蔑まれ、僅かにどこかで残っていたかもしれない同情すら失う。オリオル侯爵家も、決して許さないに違いない。
(それでも……ここに残ってただ削られ続けるくらいなら……すべてを失うリスクを背負って自由になるほうがずっといい)
しかし、ミスリアはディランのことが気がかりだった。
「私はご存じの通り、もう王宮では悪女のように扱われています。それなら、いっそその役を引き受けても構いません。ただ――あなたまで巻き込んでしまうのが、気がかりで……」
いつの間にか、空は暗くなっていた。僅かな沈黙のあと、ディランはふっと笑みを浮かべる。
「僕もあなたと、悪役になりますよ」
「……え?」
「あなたを失ったエルシオンがどうなろうが、僕には関係ない。だから……僕を使ってください。王太子妃殿下」
軽い調子の裏に、揺るがない意志を感じる。ミスリアは、その菫色の瞳から視線を逸らせずに、気づけば頷いていた。
「……では」
ディランは一歩下がり、静かに膝をつく。
「僕はたった今から――あなたのものです」
人生で男性に跪かれたことなどない。戸惑うミスリアの手を、ディランはそっと取り、手の甲に口づける。顔を上げれば、悪戯めいた笑みが唇に浮かんでいた。
「どうか僕を、あなたにとって都合のいい男にしてください」
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試し読みはここまでとなります。お読みいただきありがとうございます。
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