顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
彼に犬の耳があったらぺしゃりと垂れていたと思う。綺麗な顔に似合わず、だらしなく力を抜いては、やさぐれオーラを醸し出している。
「セオ、久しぶりに来たと思えば、一体どうしたんだ?」
調理の片手間に、マスターが声をかけている。青年の名前はセオと言うらしく、そのセオはまるで絶望するかのごとく、カウンターに突っ伏したままだ。
ここまで来ると、なんだか憐れに思えてくる。
カティアもまたすっかり警戒心を解き、セオの頭を見下ろした。
「いい加減年貢の納め時だ諦めろと言われて幾星霜――わかっている。俺だって自分の責任は果たさないといけないことくらいわかっているが!」
「あ、なるほど。いよいよ結婚が決まったか?」
事情を知っているのか、マスターがニマリと口の端を上げる。
「例の子と、とうとうか? セオ、これは街の女たちが泣くなあ」
「面白がるなよ! 家業のためなら仕方ないとわかってるけど! 俺だってさあ! できることなら好きな女の子と結婚したいよ!!」
「そんなこと言って、どんな子が声をかけても一切靡かなかったじゃないか」
「悪かったな! 理想が高くて!!」
次々飛び交う野次に向かって、くわっと目を剥きながら主張するセオの顔は必死だ。
隣に座ったカティアは、すっかり勢いに呑まれ、ぽかんと口を開けていた。
セオと面識がなく、事情のわからないカティアのためにと、客のひとりがこそこそと教えてくれる。
黒髪の青年の名前はセオ。この街に出入りしている旅商人の息子らしく、たまにふらりとこの酒場に来てはくだを巻き、酔い潰れて帰っていくらしい。
とはいえ、人望は厚く、友人も多い。たまにしか来ないのに、どんな客ともすぐに打ち解け合えるコミュニケーション能力の持ち主だそうだ。
そんな彼だが、父親が体調を崩して家業を継がないといけなくなり、結果、最低最悪な女と婚約することになったとか。それで現実逃避をするため、やって来ているらしい。
「いや、いいんだよ! 家のための結婚だってわかってたから! 恋とか愛とかは期待してなかった! けどさあ! せめて普通の! 優しくて控えめで一緒にいたらほっとするような、ついでに言えばこうして酒を呑みながらくだを巻ける女の子と結婚したかった!! これって贅沢な悩みか!?」
「贅沢だ!」
「そうだそうだ! 酒飲みはまだしも、優しくて控えめで一緒にいたらほっとするような女の子なんて幻想だ!」
顔のいいセオに対する嫉妬なのか、皆が拳を振り上げながら面白おかしく主張している。
「いや! でも! その子、気に食わない他の女の子をいじめるのに躊躇はしないし、夜は遊び歩いて男を漁ってるとかで、ろくな噂がないんだ! 顔も見たことないのに、悪い噂ばかりが耳に入るんだ。憂鬱になるだろ? 結婚だぞ!? 一生のことなんだ」
酒が回ってきたのか、セオの言葉もどんどん早口になっていく。
よほどひどい相手なのだろう。お目々をぐるぐる回しながら、悲観に暮れている。
これまたとんでもない噂の持ち主だなと思うと同時に、ある言葉が胸の奥に引っかかる。
――顔も見たことがない。
つまり、隣で嘆いている彼は、カティアと同じで顔も知らない相手と結婚しなければならないらしい。
「……わかります」
「へ」
まさか、カティアが共感してくれるだなんて思わなかったのか、セオが顔を上げる。
ああそうだ。まさに、カティアの目の前にも同じ問題がぶら下がっている。
そもそもこの酒場に来た理由。それは、いつも見守ってくれていたマスターや、顔見知りの皆に挨拶をするためではなかったか。
「私も、もうすぐ、顔も知らない方と婚約することになったので」