顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
「きゃっ!?」
あまりの揺れに体勢を崩し、カティアは壁に肩を打ちつける。痛みに顔をしかめながらも、すぐそこ――貼り付いた窓の向こうに見えた光景に、息を呑んだ。
(――え)
騎馬だ。
大通りの向こうから、数多くの騎馬が迫ってきている。
街行く人々が驚きで足を止め、慌てて道の両脇に引いていく。そんな中、整然と隊列を組み、大通りを駆け抜けてくるのは――。
蒼のマントが翻った。
信じられない。だって、あの色彩は近衛騎士団――国王直属の精鋭の証だ。
「あれ! ――さま! あの――――だよ!」
「――――した! そこの馬車、止まれ!」
「とまれー!」
全部が全部、聞こえたわけではない。でも、凜々しいかけ声と、それを真似るように響く高い声がある。
心臓が、大きく跳ねた。
だってこの声。「なんで? どうして?」という気持ちが膨らむばかり。
(まさか――)
でもおかしい。
カティアが心待ちにしているあの人は、この国の王だ。こんな最前線に来ていいはずの人ではない。わかっているのに。
(馬鹿……!)
あまりにあの人らしくて、胸が熱くなる。
馬車が大きく揺れた。男たちが怒鳴り合い、御者が馬を叩いている。
でも、もう遅い。蹄の音が、もうすぐ後ろまで来ている。
様々な怒号が響く中、カティアの耳は、今度こそあの人の声をはっきりと聞き取れた。
「カティア!」
叫ばずにはいられなかった。
「セオ!」
窓に貼りつき、必死で身を乗り出す。
「セオ! セオ……っ!」
「おい! やめろ!!」
すぐに男たちに引き戻される。肩を掴まれ後ろに引きずられそうになる。それでもカティアは何度も窓にかじりつこうとした。
「セオ!」
喉が潰れてもいい。この声があの人に届いてほしい。ただそれだけだ。
近衛の力は圧巻だった。
たちまち馬車は追いつかれ、四方を完全に囲まれる。
ガン!と前方に衝撃が走った。御者台でなにかがあったのだろうか。
いよいよ馬車は速度を落とし、急停車した。
「くそ! まずいぞ!!」
男のひとりが声を荒げ、剣を引き抜く。
しかし、皆が完全に構える前に、再び馬車に衝撃が走った。
ガッ!と凄まじい音が響いたかと思えば、ドアが真っ二つに切り裂かれたのだ。
なんだ、と考える余裕すらない。蝶番ごと吹き飛んだドアの向こうから、眩しい太陽の光が一気に流れ込んできた。
そして目に飛び込んでくる空の青。
その青を背に、銀色の髪が煌めいた。
逆光の中に立つ長身の影。手にした剣の切っ先から、魔法の残滓だろうか、蒼い光の粒がキラキラと輝いては散っていく。
そして、瑠璃色の瞳が真っ直ぐにカティアを射抜いていた。
「あ――」
駄目だ。泣いたら。
だって泣いたらあの人の顔が見えなくなる。
待っていた。カティアは、ずっとこの人を信じて待っていたのだ。
「セオ……!」
「カティア!」
伸ばしかけた手は、けれどすぐには届かなかった。後ろから羽交い締めにされ、馬車の奥へと引きずられていく。
「来るなっ! この女がどうなっても――ぎゃっ!」
しかし男の恫喝はすぐに途切れた。それとともに、カティアの身体が一瞬で軽くなる。
音もなく車内に飛び込んだセオが、カティアを掴んでいた男の顔面を蹴り倒したのだ。
「しゃがんで!」
「っ!?」
反射的にその場に蹲る。
狭い車内だ。カティアの頭上をなにか光が走ったかと思えば、ドサッと背後で誰かが倒れる音がした。
セオが魔法で男たちを制したのだろう。車内はあっという間に静かになった。