顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
「っ!」
ガバリと上半身を起こし、絶句した。
なんだこれは。今、自分はどこにいる。
カーテンの隙間から漏れ出でる朝の光。そう、朝だ。夜が明けている。
いや、それはいい。――いや、よくないけれど。誤魔化す方法もあるにはある。
問題は、今、この状況だ。
ギシリとベッドが揺れた。普段、カティアが愛用しているものよりもあきらかに小さいベッドなのは、ここが下町にある宿の一室だからだ。
曖昧な記憶をたぐり寄せ、カティアはぐっと唇を引き結んだ。
そう、昨夜、カティアは本能の赴くまま、セオと閨をともにして――。
(え? 閨? 閨……?)
ぎ、ぎ、ぎ、と油の切れたゼンマイ人形みたいに視線を下に向ける。
身体がすーすーする。どうも、甘い熱に溺れ、一糸まとわぬまま、上掛けだけかけて眠っていたらしい。
胸元には無数の赤い華が散っており、どれほど深く愛されたのかありありと思い出された。
そしてさらに自分の隣。ん、と誰かが小さく唸り、寝返りを打った。夜の色をした黒髪がわずかに揺れる。
上掛けが胸元まで落ちた。
薄い朝の光が、露わになった肩から胸にかけての輪郭をなぞっていく。
しなやかに引き締まった身体は、ただ細いのではない。触れた指先が覚えている。薄い肌の下にある、しっとりと熱を帯びた筋肉の感触を。
セオだ。瞬間、昨夜のめくるめく情事が脳内を駆け巡り、血が沸騰する。
(きゃあああああ!?)
やってしまった。
これは。完全に。やってしまった。
カティアは悲鳴を上げそうになりながら、反射的にベッドから飛び降りる。
床に散らばった衣服をひっつかみ、乱暴に袖を通した。
さすがに彼も目を覚ましたのか、背後で「おい! 待って!」と掠れた声が聞こえた気がしたが、振り返る勇気なんてない。
顔も合わせられないまま、カティアは朝の街へ飛び出した。
(なんてことしてるのよ!?)
婚約式前に、とんでもないことをしでかした。
完全に流された。お酒が入っていて、気が大きくなっていたというか、一生で一度の恋にずぶずぶに溺れてしまったというか。取り返しのつかない行為とはこのことだろう。
精一杯、優等生として生きてきた自分。下町に出るのも、カティアなりの目的意識があったから。なにも恥じることはないと胸を張って生きてきたけれど、もう無理だ。
涙目になりながら、カティアは全力で朝の街を駆けていく。
まだ、日が昇りはじめた時間だからか、道行く人はほとんどいない。
カティアの小さな足音が、静かな住宅街に響いていた。
とんでもないことをした。でも――と、思考がぐるぐる行き来する。
(セオ……)
彼に触れられた肌が、まだ熱い。胸元にいくつも、熱が灯ったみたいだ。
彼の声が、体温が、忘れられない。
起き抜けに見た自分の肌にギョッとした。
そうだ。セオはこの肌に何度も唇を落とし、印を刻んでいた。
『不安なのはわかっている。でも、俺は決めたから』
切実そうな声で、囁きながら。
『絶対に君を迎えに行く。家の取り決めなんて関係ない。俺の花嫁は、君だ』
そう囁かれるたびに、余計に苦しくなってばかりだった。
正直、彼の言葉が本心かどうかはわからない。
カティアは恋愛経験がゼロで、それこそ、セオみたいな百戦錬磨にしか見えない男性にコロッと騙されてもおかしくないという自覚はあるからだ。
一夜にして、そこまで言ってもらえるほど、自分が魅力的な女性だとも思えない。
もちろん、少しくらいは好意を持ってもらえたのだろう。
――でも、カティアは。
カティアの恋は本物だった。
だから、プロポーズにも聞こえるセオの睦言に、胸を引き裂かれる想いがした。
期待をさせないでほしかった。いくらセオがやり手の商人だったとしても、その夢が叶うことなんてありえない。
だって、カティアの相手は王家。王太子だ。
さすがに王太子の相手を掠め取るなんて芸当、一介の商人には不可能だ。
もしかしたら、セオがカティアを奪いに来てくれるかも、なんて淡い期待すら抱けない。
むしろ、カティアは行きずりの男と一夜を共にするという、王家に嫁ぐ身としてはあり得ない所業をした。
この業を背負って、これからの日々、覚悟を決めなければいけない。
(まあ、悪女だって噂はあるから、今さらだけど)
それでも、カティアは噂通りの悪女として、針の莚に座らせられる覚悟をしなければいけなかった。