顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
お淑やかなふりして、やっぱりあばずれだったのか。
たちまち頭に血が上る。
目を吊り上げながら、アビゲイルは全力でイヴを追った。
だから嫌いなのだ。あの女が。
自分たちとはきっと住む世界が違うくせに、わざわざ下町に出てきてデカい顔をする。チヤホヤされるのに気持ちよくなって、漁るだけ漁ってはアビゲイルみたいな真面目な女の子を見下しているのだ。
(そうはさせない)
セオは騙されているのだ。
(そうよ。セオを助けられるのはあたしだけ)
いいプランが思い浮かぶ。このままイヴを尾行して、正体を暴いてやればいいのだ。
それをセオに優しく教えてあげればいい。
あなたはあの性悪女に騙されている。でも、アビゲイルはセオの味方だから、と。
優しく教えてあげたら、セオはアビゲイルに恋をしてくれるかもしれない。
(そうよ! セオに話しかけるチャンスじゃない!)
セオも、おそらく住む世界が違う人だとはわかっている。それでも、アビゲイルの妄想は自分に都合がよくできていた。
己を偽ったイヴの悪行を暴露して、セオに見初められる。
幼馴染みの言ったとおりだ。見た目が似ているのなら、アビゲイルにもチャンスはある。というか、アビゲイルの方が相応しい。アビゲイルの方が、イヴなどよりもずっと健気で素敵な女の子だ。アビゲイルの方が。アビゲイルの方が――。
と、イヴの背中を必死で追いかけ、辿り着いた先で絶句する。
「嘘……」
貴族街に足を踏み入れた瞬間から、嫌な予感はしていた。
けれどもここは、リーヴス侯爵家。そう、ただの貴族などではない。貴族の中でも相当高位な大貴族の家ではないか。
「あの、悪女の家……?」
全てが繋がった。噂は聞いたことがある。
リーヴス侯爵令嬢と言えば、夜な夜な男を漁って遊び歩いている大悪女だ。一年ほど前、王太子妃候補に選ばれたけれど、その前任の候補者を蹴落としたのも彼女の策略だとか。
同い年の令嬢に嫌がらせばかりして、身分を笠に着て好き勝手振る舞うロクでもない女。
最終的には王太子の婚約者という位まで、金で買ったという噂すらある。
そんな女が、セオと。
「許せない……!」
こんなこと、あってはならない。絶対に許してはいけない。
あんな女、王太子妃に相応しいはずがない。
「そうよ! セオだけにじゃない。この情報、新聞社に売り渡せば――」
「少し、そこのお嬢さん」
ふと、声をかけられ我に返る。
振り返った先には、三十代――いや、四十代だろうか。おそらく貴族か、それに仕える者だろう。黒のフロックコートに身を包んだ、落ち着いた雰囲気の男性に身を強張らせた。
自分とは住む世界の違う人間。洗練された所作に気圧されながら、アビゲイルは一歩、二歩と後ろに下がる。
「突然のお声がけ、驚かせてしまいましたね。丁度、あなたみたいなお嬢さんを探しておりまして」
「あたし、みたいな……?」
下町の人間にとって、貴族というのは警戒すべき対象だ。彼らがイエスと言えば、イエスになる。まさに天上人。そんな人に探されていたとは、どういうことか。
本来なら警戒を強めるべきなのに、アビゲイルの心は浮き足だった。
埋もれた砂の合間から、アビゲイルという砂金を見つけてもらえた喜びか。
エメラルドの瞳を輝かせ、言葉を待つ。
「あの悪女エルカティア・イヴ・リーヴスに成り代わるつもりはございませんか?」
思いもよらない誘いを提示され、アビゲイルは息を呑んだ。
「あなたが本気で望むなら、あなたを、王太子妃にしてさしあげましょう」
「王太子妃」
とんでもない餌をぶら下げられ、口元を震える手で覆う。
「セオという男を、好ましく思っているのでしょう?」
「え?」
どうしてセオの名が、と目を見開くアビゲイルに、目の前の男は勿体ぶるように笑みを返す。
「奪ってやりたくありませんか? あの悪女から、なにもかも」
そうして翌日。
婚約式を目前にしたリーヴス侯爵令嬢エルカティア・イヴ・リーヴスが、行きずりの男と一夜を共にしたという一大スキャンダルが、新聞の一面を飾ることになる。