顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(……まだ、マシだったと考えるべきなのでしょうね)
ぱんぱんと、コートについた土埃を払いながらカティアは考える。
本来なら、追い出される前に鞭打ちなどの罰があってもおかしくないことをしでかした。
リーヴス侯爵の判断はカティアの想像以上に甘く――だからこそ、困惑する。
もしかしてカティアを娘だと思ってくれていたから、この程度の処罰で許してくれたのか、とか、あり得ないことを考えてしまうくらいには。
(ううん。そもそも、貴族の娘だもの。この対応は甘くないわ。――本当なら、身ひとつで放り出されたら生きていけないもの)
ろくな未来は待っていない。
人攫いに捕まって売られるか、はたまた生活するためにいずれ自分から身を売るか。
(生きていく術を身に付けていて、よかった)
こんな形で、普段から下町に入り浸っていたのが役に立つとは思わなかった。
(でも、酒場に行ったら、きっと迷惑がかかる)
今回、新聞記事を書かせた人間が誰かを把握できていない。
でも確実に、高位貴族が関わっているだろう。イヴの正体はバレていて、そんな自分が下町に行ったら確実に迷惑をかける。
下町の人々にとって、貴族というのは天災と同じだ。少し気に食わないことがあれば、簡単に平民を処断する。
あそこの客は、皆、気持ちのいい人ばかりだ。カティアが助けを求めたら、きっと匿ってくれるだろう。でも、そのせいで、害が及ぶようなことがあってはならない。
(行けない……)
丁度、さよならは済ませた。大丈夫だ。
不安だけど、王都を出てどこか別の街で、ひとりで生きていこう。
きっと大丈夫。自分なら、ひとりでもやっていける。
(でも……)
ただ、ひとりだけ。後ろ髪を引かれる気持ちになるのは、セオの存在があるからだ。
『絶対に君を迎えに行く。家の取り決めなんて関係ない。俺の花嫁は、君だ』
あの夜、彼がくれた言葉に甘えそうになるから。
いや、わかっている。そんな未来はありえない。
セオが愛してくれたのはカティアではなく、赤茶色の髪にエメラルドの瞳を持ったイヴという娘だ。カティアがこの街から消えたとして、気付くはずがない。
それにセオには婚約者がいる。まもなくその人と結婚するのだから、そもそも期待なんかしちゃ駄目だ。
あれは、彼のリップサービス。カティアに忘れられない思い出をくれただけ。
その思い出を心に仕舞ったら、きっと、前を向ける。
(そうよ。ちゃんと前を向いて――自由になった。そう考えればいいの)
籠の鳥になるはずだった未来が、明るく開けたと考えよう。
そうすれば、胸の奥がすっと軽くなった気がして、カティアは無理矢理微笑む。
笑え。自分なら大丈夫。
努力をするのは得意だ。ひとりでやっていける。
そう自分に言い聞かせ、歩き出す。