顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
レスターが盛大なため息を落としている。
くいと眼鏡の弦を上げてから、セオの執務机の隅に置いてある、とある小物に目を向けた。
それは水色の布に白で刺繍の入った守り袋で、九カ月ほど前からセオがなによりも大切にしている品だった。
「教会に、あのような御印の届出はございませんでした」
事実を淡々と述べられるのも、もう何回目だろう。
「わかっている。魔法に詳しいお前が言うんだ。本当に珍しいものなんだろう」
レスターは魔法に精通している。セオが物心つく前から、将来的にセオの片腕となるよう秘密裏につけられた腹心だ。それくらい優秀でなければ、この地位にはいない。
彼はセオに仕える傍ら、長く魔法省に在籍していた。
魔法省でも持ち前の冷徹さと合理性をいかんなく発揮し、『凍れる冷徹眼鏡様』だの『氷眼鏡様』だの、なかなかな二つ名がついていた。
そんな彼に、守り袋に残された魔力を見てもらった結果、特殊な加護だろうという結論に至った。
もちろん神と称される存在自体、膨大すぎて人間が把握しきれるものではない。比較的加護を与えてくれやすい神もいれば、そうでない神もいるわけで、イヴの場合は後者。おそらく、前例のない御印を授かっていたのだろう。
「御印の届出自体をなかったものにされた可能性はある」
まだ諦めきれない。セオが厳しい表情でそう呟いた瞬間だった。コンコンコン、とバルコニーに面したガラス扉が鳴った。
この奇妙な位置からノックをする人物を、セオはひとりしか知らない。そしてそれが待ち望んでいた人物であったため、セオはパッと顔を上げた。
「戻ってきたか、フロゥ」
窓に向かって声をかけると、待っていたとばかりにガラス扉の鍵が開けられる。
そこには、豪華絢爛なこの執務室には不似合いな、まるで旅装束のような格好をした男が立っていた。
くすんだ金色の髪は少し癖があり、碧の瞳は深みのある落ち着いた色合いだ。今でこそ色が呆けて地味な印象になっているが、身に着ける衣装で派手にも地味にもなる色彩。密偵をするにはぴったりな見目をした細身の男は、身軽な身のこなしで部屋に足を踏み入れる。
「ッス。戻りました、陛下」
馴れ馴れしく手を振りながら部屋に入ってきた男を見て、レスターがわかりやすく嫌な顔をした。
「そこは入口ではないと、何度言えば頭に入るのか。あなたの空っぽの脳みそにそのまま書き込んで差し上げましょうか」
「ひえ、レスターちゃん怖え。しゃーねえじゃないっスか。いちいち騎士服に着替えて表から来るの、レスターちゃんの嫌いな時間の無駄ってやつっスよ。この部屋の警備が厚すぎて、手続き面倒だし」
「警備が厚すぎ? その警備をくぐり抜けて、簡単に窓から侵入する人間がなにを言うのですか」
まあ、そちらの方がはるかに難しい。けれどもこの男だけは、それを簡単にこなしてくれる。
金髪の男、フロゥ・トニ・ラリッジもまた、昔からセオに仕えてくれている数少ない従者のひとりだ。
騎士職ではあるが、セオ個人の影でもある。密偵として、外に出られないセオに変わって数々の情報を仕入れてくれていた。