顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
身重の身体でこの街に辿り着いたカティアに、最初に話しかけてくれたのが彼女で、それ以来なにかと世話になっている。
結婚した相手はすでに亡くなっていて、子はひとりで産み育てるしかないという嘘をつくのは心苦しかったが、彼女はどう見てもワケアリのカティアを心から心配してくれた。
今ではそのノーラ自身が営む雑貨屋に、守り袋をはじめとした手製の小物を卸しているほか、代筆業の依頼なども回してもらっている。
カティアの手跡は流麗で、簡単に身に付くようなものではない。パーティーの招待状や折々の手紙の代筆等、富裕層の女性に大人気だった。
あと三カ月もすれば、レイネの街にやって来てから四年になる。
四年間、本当に大変な日々だった。
いくら下町に行くことに慣れていたにせよ、ひとりで生活ができるかといえば否だ。
日々の食事や掃除、洗濯等、リーヴス侯爵家にいればどれも自分の手でやったことのないものを、身重の身体でこなさなければいけなかった。
最初の一年、ラピスが産まれるまでは一日一日が不安の連続だったけれど、ノーラをはじめとしたこの街の人々に温かく見守られ、なんとか生活できた。
ラピスが産まれてからは、あまりに大変すぎて記憶がほとんどないけれど、ただただ幸福な気持ちがいっぱい胸に詰まっている。
王都での息が詰まるような空気とはなにもかもが違う。大変でも、日に日に大きくなるラピスの成長を見守りながら、日々を一生懸命生きるのは楽しかった。
(本当にいい街。ここに来て、よかった)
唯一心残りなのは――と、ある人の姿を胸に思い描き、すぐに首を横に振る。
「かあさま、きょうもノーラちゃんのおみせ?」
「ええ。お店番よ。ラピスも一緒にね」
「あい!」
ラピスはぱっと顔を輝かせて、小さな拳を突き上げる。
お客さんに「いらっしゃいませ!」と言うのが、この子の最近のお気に入りだった。
ここの一階にあるノーラの雑貨屋は、カフェスペースを併設したお店だ。流行に敏感な女性のお客さんがほとんどで、カティアの貴族として培われた審美眼や所作は、接客をするにもおおいに役立っていた。
もちろん、エルカティア・イヴ・リーヴスの名前は捨てた。今はただのカティアとして、日々を過ごしている。
「さあ、今日も張り切って働くわよ!」
「あーい!」
窓からは変わらない潮風。
この穏やかな日々が続けばいい。そう願いながら、カティアは花の笑顔を咲かせた。