顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
朝食を済ませ、身支度を整えて階下に降りると、扉を開ける前からふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
バターと蜂蜜の匂い。ノーラが焼き菓子を仕込んでいるのだろう。
扉を開けると、見慣れた店内がカティアを迎えてくれる。
白い漆喰の壁に明るい木目のカウンター。天井にはドライフラワーの束が吊され、棚には色とりどりの小瓶や貝殻のアクセサリー、レースのポーチに、カティアの守り袋も並んでいる。
手前の窓際にはカフェスペースの丸テーブルがみっつ。麻のクロスがかけられた席に朝の光が差し込んで、店全体が優しい色に染まっていた。
港町の雑貨屋らしく、あちこちに流木やガラス小物、珊瑚のオブジェがさりげなく飾られている。
ノーラの気まぐれで内装は変わるが、彼女らしい、さり気なくて趣味のいい空間が広がっていた。
「ああ、カティアおはよう。ラピスも早いね」
カウンターの奥から、エプロン姿のノーラが姿を現した。
店の雰囲気と同じ、優しいアーモンドカラーの髪は腰まで揺れていて、瑞々しいオレンジの瞳は生命力に溢れている。
「おはよう、ノーラ」
「ノーラちゃん、おはよう!」
ラピスがぱたぱたと駆け寄ると、ノーラはしゃがみ込み、視線を合わせてラピスを迎えてくれる。
「ああ、今日も元気だね。はい味見係さん。仕事だよ」
焼きたてのクッキーをひとつ差し出すと、ラピスは目をまんまるにして受け取った。ひと口かじり、ぱあっと瑠璃色の瞳を輝かせる。
「おいしい!」
「はは。あんたはなんでも美味しいって言ってくれるね。参考にはならないけど、作り甲斐あるよ」
ノーラは快活な笑顔を見せ、ラピスの銀色の頭をわしわしと撫でた。
「カティアもどうだい? これ、新作。海商祭に出そうと思ってるんだけど」
「いただくわ。――あら、美味しい。レモンの皮を入れたの?」
「そうそう、皮をすりおろして混ぜたらいい感じになってさ」
満足げに腕を組むノーラは、カティアと同い年の娘だ。
カフェで出す焼き菓子は全て彼女の趣味を兼ねた手作りで、朝早くから仕込みに入るのが日課だった。
くすくす笑い合いながら、ふたりで開店準備にとりかかる。
テーブルを拭き、椅子を整え、カフェスペースに小さな花瓶を置いていく。ラピスもお手伝い気分で、カティアの後をぱたぱたと走っていた。
「あれ? おかしいな」
ふと、ノーラがカウンターの裏で首を傾げた。引き出しを開けたり、棚の上を探ったりしている。
「どうしたの?」
「海商祭向けの仕入れリスト、昨日書いてたんだけど。どこやったっけ」