顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
ああ、やっぱり。あの声だ。記憶の中でおぼろげになっていたはずなのに、聞いた瞬間、鮮明に蘇る。
(ラピスが裏に出ていてくれてよかった)
カティアがイヴだとバレてはいけない。そうすればラピスは奪われる。
そんな気持ちが湧き起こり、身を強張らせた。
(そうよ。これはきっと、偶然)
大丈夫。四年前、彼と一夜をともにしたとき、カティアは見た目の色彩を変えていた。
ミルクティーベージュの髪を赤茶色に、そして瞳はエメラルドに。さらに市井に下りてすっかりと労働者になったカティアに、当時の肌のきめ細やかさも、髪の艶やかさもない。
こちらの顔を見つめ、突っ立ったままの男性に対し、カティアは少々大げさにしょんぼりしてみせる。
「あ……すみません。守り袋、全部売り切れてしまって」
声が震えていないか不安だったが、なんとか平静を装う。
実際、守り袋は初日に完売している。中に忍ばせる加護の紙――カティアの『夢喰』の加護を込めた核の部分は作れるのだが、刺繍入りの袋の方が圧倒的に追いつかないのだ。
誰かに頼むつもりもないので、ちまちまと作ってはそのたびに店頭に並べていた。
「売り切れ、か」
彼が落胆した顔をする。その表情の変化にいちいち懐かしさを覚えて、胸が軋んだ。
(駄目。見すぎちゃ駄目)
ここはさらりと流して、帰ってもらうべきだろう。
(ラピスはまだ裏で遊んでいるわよね)
無意識にちらりと、裏口へ続く扉を見た矢先だった。
その扉がバン!と勢いよく開き、ふわふわゆれる銀髪の子供が飛び込んできたのである。
「かあさま! のどかわいた!」
よほど楽しかったのか、息を弾ませている。ちょっと喉を潤したらすぐにでも外に飛び出していきそうだが、間が悪い。
瑠璃色の瞳がキラキラとカティアを見上げる。そう、珍客と全く同じ色の瞳が。
「あ、おきゃくさま!」
しかし、カティアの気持ちなど知らず、ラピスは看板息子としての本能を発揮した。男性の姿を見つけるなり、ぱっと姿勢を正し、一礼したのだ。
「いらっしゃいませ!」
弾ける笑顔。数多のお客さんを笑顔にしてきたラピスの挨拶だが、肝心の相手の表情が固まった。
ラピスの銀髪を、そして瞳を、食い入るように見つめている。
「……君」
低い声が震えている。
「いくつだ?」
「さんさい!」
ラピスは得意げに指を三本立てた。
「三歳……名前は?」
「ラピスだよ!」
「ちょっと、ラピス!」
「ラピス――」
慌ててラピスを抱きしめ、おしゃべりを止めようとするも、男性はラピスの名を噛みしめるように繰り返している。
「おにいちゃん、ぼくとおなじおめめしてる!」
今すぐ会話を止めなければいけない。なのに、自分と同じ瞳を持った男性が現れてよほど嬉しいのだろう。
ラピスはカティアの腕をすり抜け、すぐにその男性に駆け寄っていった。そうして男性のズボンをくいくい掴んで、店の奥へと招き入れようとしている。
「ちょっと、ラピス! あなた、お外で遊んで泥だらけでしょ! お客さんの服を掴まないの」
「構わない」
合わせて引き離そうとするも、そこを男性が制した。その場でしゃがみ込み、ラピスと目を合わせる。
「ラピス、君はあちらの女性の子供なのか?」
おおよそ子供に対する口調っぽくないが、少し堅苦しい問いかけにも、ラピスは楽しげに頷く。
「そうだよ。ぼくのかあさまはすごいんだよ! おまもりぶくろみて! こっち!」
と、いつも守り袋が鎮座している商品棚の前に連れて行くも、もちろんそこは空っぽだ。
「うりきれ……」
しょぼん。と落ち込むラピスの姿を微笑ましいのか、男性の表情がふと緩む。
「探してくれてありがとう。君は親切だな」
「ううん! でも、ないならかあさまにつくってもらったら――」
「わああああ!」
カティアは反射的に大声を出してしまったが、もう遅い。
男性の視線が真っ直ぐカティアを射抜いている。
「……君が、作っているのか」
静かな、しかし逃がさないという意志を宿した声だった。