顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(2)本当の親子のように
翌日も、そのまた翌日も、セオは店に現れた。
気を使ってくれているのか、はたまた別の目的か、客足が途絶えたときにふらりと現れる。まるで、通りの角からこっそり店の様子を窺っているかのようだ。
困ったことに、店にひとりでいるとき、ドアベルが鳴るたびにカティアの心臓が跳ねるようになってしまった。
「カティア、君が代筆もやっていると聞いた」
今日のセオは、カウンター後ろに置かれたインク瓶とペンの並びに目を留めていた。
「少しだけ。ご依頼があれば、お手紙の代筆を」
「見てもいいか?」
そう言われた瞬間、息を吐く。いつか言われると思っていたからだ。
だからカティアはあえて筆跡を変えて披露することにした。
下手に書いたところでセオにはバレるだろう。だから、カリグラフィーでも、いくつか型があるうちのひとつ――聖典の写本から派生し、書籍の活字として広く普及しているかっちりとした正書体を選んだ。
普段の型が流麗な貴族女性が好む筆記体とすれば、手元で綴るのは端正な書体。一画一画に規律があり、読み手を選ばない明瞭さが特徴だ。しかしそれだけだと華がないので、花形装飾と呼ばれる飾りを施していく。
丁度活版印刷が流通しはじめたころ、聖書を世間に受け入れられやすくするために、こうした装飾活字が流行ったのだ。
流れるようにペンをなぞっていくと、セオは黙ってその手元を見つめていた。
口を挟まない。ただじっと、ペン先が紙の上を滑るさまを、瞬きも忘れたように追っている。
「美しいな――この書体、教会の様式に近い」
さすがだ。滲み出る教養に心臓が跳ねる。
「独学なんです。子供のころ、聖書の美しい装飾に憧れて」
「独学でここまで? 大したものだ。他には――」
「あ、すみません! お客さまがいらしたみたいなので!」
ドアベルの音に救われた。カティアはすぐさま立ち上がり、入口へ駆けていく。
「いらっしゃいませ!」
常連の夫婦が、のんびりと入ってきたところだった。いつもの焼き菓子のセットをお出しすればいい。それだけなのに、手が震えている。
(助かった……)
もう何度目だろう。セオの問いかけは、いつもカティアを丸裸にしてくる気がして怖い。
同時に、あの目。どうしてだろう。カティアを追い詰めようとしているわけではなく、縋りつくような目を向けてくるのだ。
そのたびに、彼と過ごしたあの夜の記憶が甦り、無意識に彼に触れてしまいそうになる。
焼き菓子を包みながら、ちらりとカフェスペースに目をやる。
――そこに広がる光景に、手が止まった。
ラピスがやって来ては、セオの膝の上にちょこんと収まっているのだ。
すっかり懐いているようだ。セオに見てもらおうと、わざわざ自分の宝物を持ってきている。
「これはね、うみでとれたかいがらなの。ピンクのはめずらしいんだよ!」
「ほう。確かにいい色だな」
「あとね、これも!」
ポケットからもうひとつ、小さな貝殻を取り出して、得意げにセオの手のひらに載せる。
「こっちはぼくがみつけたの! かわいいでしょ!」
「ああ、いい形だ。目利きだな、ラピスは」
「めきき!? すごい!?」
なにやらすごい褒め方をされたよ!とばかりに、ラピスが満面の笑みを浮かべる。セオもまた、柔らかく目を細めてラピスの銀髪をそっと撫でた。
よく似たふたりだ。
セオの慈しむような顔。その手つきが、あまりにも自然で、優しくて。
(……お父様よ、って言ってあげたい)
父親がいる人生の方が、この子にとっていいに決まっている。母ひとりでは与えられないものが、きっとたくさんある。
それに、日々の暮らしに追われるばかりの今とは違う。
王宮であれば、教育環境はもちろんのこと、温かい食事も、清潔な衣服も、安全な寝床も――この子が当たり前に手にするべきものが、当たり前のように用意されている。
今みたいに質素な暮らしをさせないですむ。
――でも。
(もしラピスが『星の子』だと知られたら)