顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
ラピスはカティアの手の届かないところへ連れていかれてしまうだろう。
ラピスの寝顔を見ることが、笑い声を聞くことが、小さな手を握ることがもう叶わなくなる。
(私の、わがままなのはわかってる)
ラピスじゃない。カティアが、手放せないのだ。
でもラピスは、この四年間、カティアを生かしてきた全て。だからその一歩がどうしても踏み出せない。
「カティア」
お客さまを見送って戻ると、セオが真っ直ぐにこちらを見ていた。その膝の上で、ラピスがうとうとと船を漕いでいる。遊び疲れたのだろう。
「――ラピスが寝てしまった」
「あ。すみません、重かったでしょう」
「いや。……気持ちよさそうに寝ている」
我が子の寝顔を見下ろすセオの表情が、どうしようもなく穏やかだった。柔らかい銀色の髪を何度も梳きながら、目を細めている。
その表情があまりにも優しいものだから、心が跳ねて落ち着かなくなる。
「カティアは、ラピスを本当に大切にしているんだな」
「……ええ。この子は、亡くなった夫が遺してくれた、たったひとつの宝物ですから」
嘘だ。亡くなった夫など存在しない。
ラピスを遺してくれたのは、今、目の前にいるこの人だ。
それでも、それを壁にしてセオを突き放さなければ、距離がどこまでも縮まってしまう気がする。カティアはそれが怖くて堪らなかった。
「今でも、旦那さんのことを?」
返答に詰まった。
今でもずっと想っている相手は確かにいる。ただそれは偽りの亡き夫などではなく、今この瞬間、我が子を膝に抱いて眠らせてくれている、目の前の人なのだけれど。
「……はい。今でも、ずっと」
長い間の後、どうにか嘘を言葉にする。――いや、嘘と言っていいのか判断しかねるが。
セオの表情がわずかに翳った。
「そうか」と短く呟いて、ラピスの頭をもう一度、そっと撫でる。
その手つきがあまりにも優しくて、カティアは唇を噛んだ。
(ごめんなさい)
誰に向けた謝罪なのか、自分でもわからなかった。