顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(3)牽制
そうして八日目。海商祭の終わりが近付いてきた頃。
今日もセオは、客足が途絶えた頃合いを見計らってふらりと現れた。
「カティア」
ドアベルとともに聞こえる低い声に、もう心臓が跳ねるのを止められない。
「いらっしゃいませ、セオ」
努めて平静を装い、いつもの席――カフェスペースの窓際にカップを用意する。セオはそこに腰掛けるのが日課になっていた。
「あ! セオだ!」
ラピスが待ってましたとばかりに駆け寄り、セオの膝によじ登る。もうすっかり懐いてしまって、セオが来ると誰よりも先に飛んでいくのだ。
止めようとするも、セオはいつも「構わない」と言ってラピスの相手をしてくれるから、すっかり習慣になってしまった。
「今日はなにをしていたんだ?」
「んとね、おにわでトカゲつかまえた! でもにげた!」
「逃げたのか。惜しかったな」
「こーんなおっきいの!」
両手をいっぱいに広げてみせるラピスに、セオが「それではトカゲではなくドラゴンだな」と真顔で返す。ラピスが目を輝かせて「ドラゴン!?」と食いついている。
セオが眩しそうに目を細め、ドラゴンの出てくる逸話を話しはじめると、ラピスは食い入るようにその物語を聞いていた。
カティアもまた、お茶を出しながら、自然と会話に耳を傾ける。
懐かしい。歌劇にもなっていて、王都で大層人気だった。年に一回、同じ時期に必ず公演がある定番の題材だ。
「セオ! ほかには? もっとおはななしきかせて!」
ラピスも瞳をキラキラ輝かせながら話の続きをねだっている。
「そうだなあ。――ああ、この街にもちょうど楽団が来ていたな」
セオは旅芸人が語り聞かせたお話について語りはじめる。それは同じドラゴン――異国では龍と呼ばれるらしいけれど――が出てくるお話で、異国情緒あふれる冒険譚だった。
多少聞き覚えのあるフレーズに、ラピスが大きく反応する。
「それ! きいた! きのう、すぐそこにきてたの!」
それだ。少人数の楽団で、この街の至るところで流しの公演をしているはず。まさにここの商店街にも来ていて、仕事の合間にラピスと覗き見をした。
「そうか。カティアも聴いたのか?」
「遠くから少しだけ。素敵な音色でしたね」
「ああ。俺も通りすがりに足を止めたんだ。東方の民謡だったらしい」
「ムゥライ地方の旋律でしたね。五音階の音色が独特で――」
言ってしまってから、しまった、と思った。ムゥライ地方の音楽様式など、普通の雑貨屋の店員が知っているはずがない。
そしてそれを聞き逃すセオでもなかった。
「驚いた。君は博識だな」
「……お客さんが教えてくれたんです。音楽に詳しい船乗りさんがいて」
「そうか」
セオは深く追及しなかった。けれど、ほんの一瞬、その瞳が柔らかく揺れた。
君は誰だ、と静かに、でも優しく問いかけられているような気がした。
けっして急がず、慌てず、真綿に包みながらも逃げ場をなくしていくかのような。
心の深い部分に触れ合いながら、探りを入れ合う。居心地が悪いはずなのに、そのまま囚われてしまいたくなる。
そしてあったかもしれない過去を夢想するのだ。
今のように、セオとラピス、親子三人で笑い合いながら過ごす日々を。
もちろん、こうして失踪し、ラピスの存在を隠そうとしたカティアは重罪人だ。もう取り返しがつくはずがなく、ハッピーエンドなどありえない。
本来なら逃げるべきなのだろう。
彼の情報網を甘く見てはいけない。
今はきっと踊らされているだけ。疑われている時点で詰みだ。
ならば、せめてもう少し。擬似家族でしかないのはわかっている。でも、この優しくて温かな夢に浸らせてほしい。
なんて愚かな夢を見たけれど、それもすぐに終わりだった。
ドアベルが鳴ったのだ。
その瞬間、ラピスがぴょんとセオの膝から飛び降り、彼の背中に隠れた。
何事かと目を向けた先、入口に立っていたのは、赤茶色の豊かな髪を流したエメラルドの瞳の女性だった。
「――まあ、こちらにいらしたのね。探しましたわ、セオ様」