顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして

 ――え。と、目を見開く。
 頭が真っ白になり、カティアはアビゲイルの顔を振り返った。
 アビゲイルはと言うと、にこにこと変わらず穏やかな笑みを湛えているが、エメラルドの瞳は鋭く光っている。

(どういうこと? この人、私が元侯爵令嬢だって知って……? セオに話を聞いている? ううん、セオはまだ――)

 様々な疑問が浮かんでは消えて行く。
 だがアビゲイルは答えを待つつもりなどないらしい。カティアの動揺を楽しむように、棚の小瓶をくるりと回しながら続けた。

「あの方、毎日ここに通い詰めているようだから、少し心配していたの」

 じろりと、カティアの頭から爪先までを舐めるように見る。以前ほどの艶を持たぬ髪、荒れた手、すっかり日に焼けた肌。そのひとつひとつを値踏みするように。

「でも、安心したわ。その心配はなさそうね」

 令嬢の皮を被ってはいるが、隠しきれない嘲りがあった。
 そしてこの人は、カティアの正体をなにもかも知った上で牽制している。

(あの夜、なにがあったかすらも知っているの……?)

 下町に顔を出していたころ、セオと邂逅したのはわずか一夜だけ。
 それまで顔も名前も知らない関係だったのだ。その一夜の交わりを知らなければ、牽制する意味はない。
 そしてアビゲイルは、ひときわ小さな声で耳元で囁きかけてきた。

「――残念ね。あの方はもう、わたくしのものなの。婚約者だもの」
「婚約?」
「だからわきまえなさい」

 婚約者。その一言が、いまだざわめきの中にある心の真ん中を貫いた。
 わかっていたはずだ。セオほどの人が独り身のままでいるはずがない。こうして毎日店に来てくれるのも、おそらくラピスのことがあるから。――なのに。

(……私、期待していたんだ)

 自覚した瞬間、恥ずかしさで顔が熱くなった。
 たった一夜を過ごしただけの相手だ。四年も経って、今さらなにを期待していたのか。自分から名乗り出ることもせず、嘘をつき続けているくせに。

「そうですか。お幸せに」

 だから笑った。ちゃんと笑えた、と思う。
 だがその反応が、アビゲイルには面白くなかったらしい。すっと目を細め、さらに囁く。

「あなたが手に入れるはずだった栄華も、地位も――全部、わたくしのものよ」

 挑発しているのだろう。けれど栄華や地位なんてどうでもいい。

(私が望むのは――)

 自然とセオに視線を向ける。
 彼はすっかり怯え、テーブルの下に隠れてしまっているラピスになにかを話しかけているようだ。あやすような声色が、ひどく優しい。――ふと頬を緩めた瞬間。
 アビゲイルの体が唐突によろめいた。棚にぶつかりそうになりながら、か細い悲鳴を上げる。

「きゃっ……!」

 触れてすらいない。
 けれどもまるで、何者かに突き飛ばされたように彼女は床に倒れ込む。
 その音に、咄嗟に立ち上がり振り向いたセオに聞こえるよう、アビゲイルは主張した。

「ひどい! いきなり突き飛ばすなんて……!」
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