顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
涙を滲ませた瞳。己の身体を抱きしめながら、アビゲイルは声を荒げる。
なんだなんだ!? と奥からノーラも駆けつけ、目の前の光景に目を丸くしている。
アビゲイルはと言うと、己の身を抱きしめながら、ガタガタと震えている。
「セオ様、この方が突然――」
そう、セオに訴えかけようとしたその時だった。
「かあさまは、そんないじわるしないよ!」
テーブルの下から飛び出したのは、ラピスだった。さっきまで怖がって隠れていたはずなのに、真っ直ぐこちらに駆けつけてはアビゲイルの前に立ちはだかる。
銀色の髪が揺れた。瑠璃色の瞳が真っ直ぐ、アビゲイルを睨みつけている。
「かあさまは、やさしいの! うそつきは、だめ!!」
しかし、ラピスの必死な頑張りは、アビゲイルには別のものに映ったらしい。
偽りの涙に濡れていたはずの瞳が、ラピスの姿をはっきりとらえるなり、一瞬で別のものに塗り変わる。
歓喜だ。
声には出さない。けれど口元が微かに弧を描いている。
ぞくり、と。カティアの全身に悪寒が走った。もしかして、と嫌な予感が掠める。
早々にラピスに奥に行くよう言っておくべきだった。アビゲイルの意識を向けさせてはいけなかった――と思ってももう遅い。
「アビゲイル」
しかし、セオの低い声が店内の空気を断った。
穏やかだった表情はどこへやら。今は冷たい瞳がアビゲイルを射抜いている。
「彼女がそんなことをする人間でないことくらい、見ればわかる」
「でもセオ様、確かにこの方が――」
「これ以上続けるようなら、君の養父に報告する。――いいんだな?」
アビゲイルの唇が、わずかに引き攣った。
「今まで、君の振る舞いには目を瞑ってきたが、限度がある」
静かな声だった。ただ淡々と事実を突きつける口調が余計に恐ろしい。
「……ごめんなさい。わたくし、動揺してしまって」
アビゲイルはしおらしく目を伏せ、指先で目元を拭ってみせた。
「わたくしがいると皆さまも落ち着かないでしょうし、今日のところは失礼いたしますわ」
「あたしが送り出します」
ノーラだった。にこりと笑っているが、すっかり目が据わっている。
「ご案内しますね。――こちらです、どうぞ」
声だけは丁寧だった。けれど笑顔は「二度と来るな」と語っている。
アビゲイルは一瞬だけノーラを見やり、それからふわりと微笑んだ。何事もなかったかのように髪を整え、外へ出ていく。
扉が閉まった。
店内に、重い沈黙が落ちる。
アビゲイルが店を出るその瞬間まで、ラピスがカティアの前に立ちはだかったままだった。しかし、その身体はまだ少し震えている。
「……ラピス、もう大丈夫よ」
そう囁きながら、銀色の髪をそっと撫でる。ラピスはこくりと頷いて、カティアの胸に飛び込んできた。
「守ってくれてありがとう、ラピス」
うん、うん、と何度もラピスは頷いている。
「あのひと、なんだかこわかった」
「そうね。少し、怖かったわね」
ラピスは人一倍、人の悪意に敏感だ。失せ物探しと同じように、なにか感じ取れるものがあるのだろうか。