顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
目の前にはセオ本人がいる。聞こえたらどうしてくれるのだ。
「前の旦那に操を立てるのも大事だけどさ、そろそろ自分の人生歩んでもいいと思うんだよ。あんたも」
「それは……」
言葉に澱む。
ノーラはカティアの本当の事情を知らない。だから、あくまで『大好きだった旦那を失ったカティア』に対する言葉だというのはわかる。
誰よりもカティアのことをよくわかってくれているからこその言葉だ。相手がセオでなければ、こんなお節介焼かなかっただろう。
「あたしはね、セオさん、いいと思うんだよね」
ああもう、ノーラはどこまで見透かしているのだろう。
カティアが頑なに見て見ぬ振りしてきた恋心を、いとも簡単に見つけ出す。そして、やさしく掘り起こすのだ。
顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
ただ、ぼやぼやしているわけにもいかなかった。今の小声の会話を、側にいたラピスはしっかり聞いていたからである。
「とうさま!? セオが、とうさまになるの!?」
「ならないわよ!? ちょっと待って!!」
カティアはその小さな口を慌てて塞ぐも、ラピスはあっという間にカティアの手をすり抜け、きらきらした目でセオを見上げている。
よりにもよって一番聞かれたくない相手に聞かれた。穴があったら入りたい。
「――俺は、いつでも歓迎だけどな」
でも。たちまち空気に溶けてしまった微かな声に、カティアは耳を疑った。
(……え?)
今、なんて? 聞きまちがい? いや、確かに聞こえた。でもどっちの意味? 父親? それともデートが? と大混乱だ。
肝心のセオはと言えば、何食わぬ顔で窓の外を眺めている。耳の先がほんのり赤いのは、気のせいだろうか。
心臓がうるさい。さっきまでとは全然違う理由で胸が痛かった。
「カティア」
セオがゆっくりとこちらに向き直った。耳の赤みはまだ引いていないのに、瞳だけは真っ直ぐカティアを捉えている。
「明日、俺に付き合ってくれないか」
低い声が、鼓膜に触れた。
「最後の大花火もあるだろう? せっかくだから、君と見たい」
そうだ。祭りは明後日の正午で終わりとなる。
だからその前夜となる明日の夜は、港に面した大花火が上がるのだ。
「明後日の昼には、この街を立たなければいけないから。――君と、思い出がほしい」
「セオ……」
そうか。もう、お別れが近いのか。
正体を守り通せてほっとするべきなのに、胸がひどく痛む自分もいる。
(セオには、婚約者がいる。でも――)
ぎゅっと、カティアは己の手を握りしめる。
本当は一緒に行きたい。彼と一緒に花火を見たい。でも、あと一歩が踏み切れない。
「決まりだね」
臆病なカティアをよそに、ノーラがにんまりと笑い、代わりに結論を出す。とどめとばかりに、ラピスの方を向いた。
「ラピス、明日はかあさまのために、あたしと一緒にお留守番できるかい?」
「おるすばんする!!」
元気よく手を挙げるラピスの姿に、退路は完全に断たれた。
「……では、少しだけ」
観念して頷くと、セオの瞳に喜色が浮かぶ。
「カティア、ありがとう! ――ふ、これじゃどっちの詫びなのかわからないな」
茶目っ気溢れる笑顔を見た瞬間、胸の奥が大きく高鳴る。
そうだ。この人の無邪気な顔が好きだったんだ。
それを痛いくらいに思い知らされ、カティアは心の中で頭を抱えた。