顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(4)見つけた ※アビゲイル視点
◇◇◇
海商祭の夜は長い。
すっかり日が落ちたというのに、窓の向こうからは笑い声や楽団の音色が途切れなく聞こえてくる。祭りの熱に浮かされた港町は、日が暮れてなお賑やかだった。
けれど、この部屋だけは別の世界のように静まっている。
港町一番の宿と名高い館の一室。国王陛下の随行者として用意された部屋だ。燭台の灯りが、磨き上げられた調度品をほんのりと照らし出している。
アビゲイルはその一角で、ペンを走らせていた。
――見つけた。
唇が弧を描く。
ふと顔を上げると、鏡に映った自分自身と目が合う。上等な寝間着に身を包んだ女が、薄暗がりの中でひっそりと笑っている。
赤茶色の髪は昔と異なり、毛先まで艶めき指通りもいい。水仕事でボロボロだった指も、今は白魚のよう。爪先まで丁寧に手入れされており、貴族の令嬢そのものだ。
ここに至るまで、四年かかった。
(似合うようになったじゃない)
四年前の自分なら、こんな部屋に足を踏み入れることすら叶わなかった。小さな商店を営むだけの末端商人の娘が、今はこうして皆に傅かれる立場だ。
でも、それを手に入れるだけの努力をしてきた。四年間、自分を殺して、別の誰かになるための教育に耐え続けた。
四年前、あの女を追ってリーヴス侯爵邸に辿り着いたとき、見知らぬ男に話しかけられたのが全ての始まりだった。
『あの悪女エルカティア・イヴ・リーヴスに成り代わるつもりはございませんか?』
それはあまりに甘い言葉だった。
自分は平民だ。貴族と関わってはろくな事にならない。それはわかっていても、抗いがたい魅力があった。
『奪ってやりたくありませんか? あの悪女から、なにもかも』
もちろん、男は全てアビゲイルの努力次第だと言う。それでも、アビゲイルはその誘惑に飛びつくしかなかった。
アビゲイルとよく似ているのに、生まれが違うというだけでチヤホヤされているあの女を追い落とせるなら。
――頷いた瞬間、世界が変わった。
最初は後悔と恐怖しかなかった。さよならの挨拶すら許されず、家に戻ることも、両親の顔を見ることも、なにもかもが突然断ち切られた。
やはり平民にとって貴族というのは、災害に近しい存在なのだ。
森の奥の一軒家に連れて行かれたときは、恐れで震えるばかり。
そこでアビゲイルに命じられたのが、エルカティア・イヴ・リーヴス――あの夜、アビゲイルが追いかけた娘への成り代わりだった。
立ち居振る舞い、言葉遣い、微笑み方。イヴという女がどんな人間だったのか、その人格を骨の髄まで叩き込まれた。
そしてようやく、グレンソン公爵と相まみえる機会を与えられた。
『お前はあの侯爵令嬢によく似ているからな。ならば成り代われる可能性もある。――どうだ? お前はあの娘のように愚かではないだろう? どちらにせよ、したたかな女でないと貴族社会はやっていけん』
なんと、アビゲイルがずっと憧れていたセオこそ、当時の王太子セルジュリウス・オルト・イヴォン・シュタルドで、アビゲイルにその妃に相応しい身のこなしを身に付けろと言うのだ。
『あの王太子はまもなく王になる。だからお前には、王妃の椅子を用意してやろう』