顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
リーヴス侯爵は汚いものでも見るかのように目を細め、吐き捨てた。
「妖魔の御印に魅入られた娘が王太子妃など、知れたら笑い者では済まぬわ」
「わかっております。今までも、これからも、この御印に魔力を宿すことはありません」
魔力を通した御印を見られないかぎり、誰かに知られる理由はない。秘密を守ることは難しくないのだ。
「あと三カ月もすれば婚約式だ。来年になればお前は王太子妃になる」
「弁えております」
「陛下の容態がよくない今、お前が王妃となるのも時間の問題だ」
何度聞かされたかわからない話だ。ため息をつきたくなるのをぐっと堪え、カティアは俯く。
アクアブルーの瞳がサッと翳るも、リーヴス侯爵の叱責は止まらない。
「もうお前になど期待していない。ただ大人しく、王妃になる日が来るのを待てばいい。邪魔さえしてくれなければ、後は私の方で上手くやるからな」
それってつまり、用なしだ。
いずれ王妃の座を埋めるための人形になれと、父は言っている。
「そのために、顔を見たこともない王太子殿下と婚約しろとおっしゃるのですね」
「当たり前だ! なにを今さら!」
わかっていたことだけれど、胸の奥に苦さだけが積もっていく。
「二十歳を過ぎても、暗殺怖さに表に出てこられないような臆病者だ。国王となっても、まともに政治ができるかどうか……。ならば、まともな貴族による、正しい助力が必要だろう?」
「そうやって、国を乗っ取られるおつもりなのですね」
「乗っ取るなど! 恐れ多い!」
癪に障ったのか、再びリーヴス侯爵が恫喝する。
「私が正しい方向へ導くだけだ! お前と同じ! 至らぬ者には正しい教育が必要だろう!?」
会ったこともない王太子を教育できる立場だと思い込んでいる方が烏滸がましいが、それを口にしたら、きっと、もっとひどい目に遭うのだろう。
カティアは地面にひれ伏しながら、顔も知らない婚約者に想いを馳せる。
たった一度とて、会ったことのない王太子セルジュリウス・オルト・イヴォン・シュタルドといえば、ただの一度も公の場に出てきたことのない『引きこもり王太子』だった。
カティアだけにとどまらず、彼の顔を見た者などほとんど存在しない。学校に通うこともなければ、そもそも社交の場にすら出てこない。存在全てが謎に包まれた人物。
もちろん、王太子が成人するまで社交の場に出てこないというのは、この国の法が定めるものである。
しかし、くだんの王太子と来たら、今は二十二歳のはず。成人して以降も出てこないのは、長い歴史の中でも例外だ。
(あの事件があって、ってことはわかるんだけど……)
自分ばかりが努力しているみたいで、あまりに滑稽だ。
望まない人物と結婚するために、父親に叱責されながら、寝る間も惜しんで努力してきた自分。やさぐれるなと言われても、無理だ。
せめて、父親に認められたかった。
王太子のためじゃない。目の前の、この人の愛情が欲しくて、これまでカティアは頑張ってきたのだ。
なのに、どれだけ結果を出そうと、頭ごなしに叱られ、ぶたれるばかり。
(馬鹿らしい……)
あと三カ月経ったら婚約式だ。
それが過ぎたら、なにか変わるのだろうか。
カティアが正式な王太子の婚約者になれば、父は認めてくれる?
(そんなはずない、わよね)
諦観する気持ちが胸を支配する。
婚約して、結婚して、その先の未来にも期待はできそうにない。
むしろ王室に入ってしまえば、今よりもっと自由はなくなるだろう。
なんて灰色の人生だろう。
ぶたれた頬の痛みを感じつつ、カティアは、色々なことを諦めた。
それからカティアは、父親によって三カ月の謹慎を言い渡される。
つまり、婚約式まで家から一歩も出るなと言う命令だ。
カティアが王家に入る前――つまり、ただの侯爵令嬢としていられる残り三カ月を、誰に挨拶することも許されず、ただただ無為に日々を過ごすようを命じられたのだ。