顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(3)イヴとセオ
――なんて。
(こんな従順じゃない娘だから、いつまで経っても認めてもらえないのかしらね。でも――)
それは、カティアが卒業して二カ月半を過ぎたころ。十九歳となり、あと半月もすれば婚約式となるある夜のことだった。
閑静な貴族街を出て、大通りを歩いたさらに向こう。飲食街の入口に足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変化する。
焼きたての肉と、香辛料のきいた煮込み料理の匂い。どこかの酒場から漏れ出す弦楽器の音色に、酔っぱらいの上機嫌な歌声が重なっている。
ひと仕事終えた者たちが店の中に入っては、乾杯の音頭を上げている。その楽しそうな空気を吸い込むように、カティアは深く呼吸した。
侯爵邸では絶対にお目にかかれない、雑多で、騒がしくて、どこまでも人間くさいこの空気が、カティアは好きだった。
魔法で色彩を変えた赤茶色の髪が夜風に揺れても、振り返る者はいない。普段よりも緑が強く出たエメラルドの瞳を楽しげに煌めかせながら、カティアは迷いなく歩いていく。
ここではカティアはただの街娘だ。リーヴス侯爵家の名も、王太子妃候補としての肩書きも、なにひとつ纏っていない。
(外に出るのも久しぶりね)
街娘の格好をするのは、実に三カ月ぶりとなる。卒業前に一度、下町へやって来ていたけれど、その後は謹慎の憂き目に遭っていた。
今日はようやく家の者たちの目をかいくぐり、外に出ることに成功したのだ。
(……どうしても、さよならだけはしなきゃいけないから)
この下町でのカティアはただの『イヴ』だ。
ミドルネームをそのまま利用している形だが、イヴなんて名前、珍しくもなんともない。魔法で色彩を変えてしまえば、カティアがリーヴス侯爵令嬢だと気付く人は誰ひとりいない。
そうやって正体を隠し、ただのイヴとして四年近く下町に通い続けてきた。
(お父様が知ったら激怒するでしょうけれど)
でも、噂にあるように、遊び歩いているわけではない。それだけははっきりと言いきれる。
父であるリーヴス侯爵の言うがまま、籠の鳥でいてはいけないと思った。
自分が王太子妃候補となる前から、ずっとだ。
リーヴス侯爵は、ただただ父親の命令に従うだけの娘が欲しかったみたいだけれど、彼が望むような完璧な娘は籠の鳥のままでは成りえない。
(そもそも、ドレスの出費すらも惜しむのですもの。きちんと身なりを整えるのも、侯爵令嬢には必要な資質だと思うけれど?)
女は貞淑なのがよい。その思想が行きすぎたのがカティアの父だ。
頭が堅いどころではない。最低限のドレスを誂える以外に、カティアに自由に使えるお金などなかった。
『夢喰』を警戒した結果なのだろう。一歩でも家の外に出ようものなら、『夢喰』の悪しき性質が発現するとでも思っているのか。カティアの本質が、怠惰で男好きな放蕩娘だと思い込んでいる。
そしてそれを抑制するために、無駄な資金を与えない。外に出さない。そういう方針で、カティアを育てようとした。
箱入り娘と言えば聞こえはいいが、要は、カティアを勉学以外はなにもできない女にしようとしているのと同義だ。
でも、カティアはそれではいけないと自覚し、見識を広げるためにもと、もう四年もこうして外の空気を吸っている。
とんだ不良娘であるのは自覚しているが、実際、外の世界は色々なことを教えてくれた。
カティアはこうして街娘として外に出て交友関係を広めつつ、自身に宿る特殊な力でちょっとした小遣い稼ぎをしながら、たまの息抜きをしていたのである。
「さてと」
目的の店の前につき、カティアはドアを引く。
カランカラーンというベルが鳴りひびくなり、店の中から威勢のいい声が届いた。
「らっしゃーい!」
「おや、イヴちゃん! 久しぶりだねえ」
ドアをくぐると、濃くなる肉と酒の香り。下町特有の雑多なおしゃべりと乾杯の音頭に、ああ、帰ってきた!という気持ちが昂揚する。
「マスター、久しぶり。今日も大繁盛ね」
元冒険者上がりのマスターは、五十代半ばにして筋骨隆々だ。逞しい胸板をさらけ出しながら、シャツ一枚で大きなフライパンを振る。
隣では女将さんが仕上がった料理を皿に盛りつけ、給仕の娘たちは軽い足取りでジョッキを運んでいった。
家族皆で切り盛りしているこの店は、ギルドからも近く、下町の情報が色々と集まる場所だ。カティアもイヴと名乗って、世話になっていた。
「ああ、イヴちゃんに変な絡みをする男がいたら言いなよ。オレがガツンとやってやっからよ」
「ふふ」
丸太のような腕をブンと振り上げる素振りを見せながら、親父さんがウインクする。
「で? 今日はいつものかい?」
「あ。私、成人したの。せっかくだから――」
いくら下町へ抜けだそうと、生来の生真面目さは変わらない。これまでは葡萄ジュースや定食を頼むことが多かったが、今日は違う。
(いいわよね。一杯くらい)