顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして

(2)花火の夜にサヨナラを



 それでも、驚くほどあっという間、時間は過ぎていった。
 出店を冷やかしては焼きたてのクレープを分け合い、雑貨屋を覗いてはガラス細工の小瓶に目を奪われる。大通りでは旅芸人の演奏に足を止め、他にも、カティアが立ち止まるたびにセオが隣で待っていてくれた。
 ワインの試飲だよと呼び止められたところでは、ふたり、なんとなく顔を見合わせて、じゃあ一杯だけと笑った。

 外に出かけるとき、普段ならばラピスのことばかり考える。
 でも今だけは、ラピスのことも、過去のことも、アビゲイルのことも全部忘れていた。
 カティアというひとりの人間として、セオと過ごすことを許された気がした。

 ――いつからだろう。繋いだ手の温もりを、意識しなくなっていたのは。

 固かった言葉の壁が取り払われて、あの夜と同じように、砕けた言葉で何気ない会話をできるようになっていたのは。

 彼と隣にいるのがあまりにも心地よくて、その心地よさに、カティアは再び恋をしたのだ。



 けれど空がオレンジに染まり、やがて藍色が滲みはじめると、嫌でも思い知らされる。

 ――ああ、もうすぐ夜だ。
 このあとの大花火が終われば、明日にはセオはこの街を発つ。
 ドアベルの音にときめくことも、ラピスと遊ぶ姿を眺めることも、もうなくなる。

 繋いだ手に、きゅっと力が込められた。カティアの方からだったのか、セオの方からだったのか、もうわからない。
 ただ、カティア自身も離したくないと願った。

 願うだけなら、自由だから。
 お別れしなければいけないことくらい、わかっているから。



 すっかり日が落ちたころ、公園の中央広場には最後の夜を惜しむ人々で溢れかえっていた。

 笛と太鼓、それからアコーディオンの音に合わせて、誰もが最後とばかりに歌い、笑い、踊っている。
 カティアたちも楽器の音色につられるようにして、ふらふらと広場の中へと足を踏み入れた。

「せっかくだ。踊らないか」

 繋ぎっぱなしだった手を、ゆっくりと引かれた。

「セオ」
「こういう踊りに、難しい作法はない。――だろう?」

 それはとても魅力的な誘いに思えた。立場もなにもかも忘れて、セオと過ごしていい最後の瞬間だと言われた気がしたから。

「そうね」

 促されるまま、人の輪に加わる。

 夜会のワルツとはまるで違う。型もなければ決まりもない。音楽に身を任せ、好きなように跳ねればいいだけの、庶民の踊りだ。

 あの夜、場末の酒場で安酒で乾杯した。カラカラと笑い合った、剥き出しの自分たち。そんなありのままのふたりでいていいと言われたみたいだった。

 それでもセオのリードは巧みで、様になっているのはズルい。
 悔しくてカティアの方から次の動きを誘うと、おどけたように彼が乗ってくれる。

「驚いた! 君はリードも上手いんだな!」
「あなたこそ!」

 楽しい。楽しいはずだ。
 周りの皆も笑っている。音楽は明るくて、夜風は心地よくて。
 調子に乗ったダンスにまで、彼はお茶目に乗ってくれる。心の底から笑っているはずなのに――。

 ――なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。

 一曲ごとに、終わりが近づいてくる。
 今日一日、とても楽しかった。楽しかったからこそ、思い知らされてしまった。
 この人のことがどれほど好きか。この人の隣がどれほど心地よいか。この人の側にいたいと、どれほど願っているか。
 この手が離れたら――自分の半身をもがれるような痛みがくるだろう。

(最後に、素敵な夢を見せてもらえたのね)

 その瞬間、夜空が煌めいた。

 ドオン――と腹の底まで響く轟音。
 足を止めて見上げれば、漆黒の空に巨大な花が咲いている。青、白、金。次から次へと火の花が開いては散り、海面に色とりどりの光を映していく。

 広場中から歓声が上がった。子供たちが空を指さし、恋人たちが身を寄せ合い、老夫婦が穏やかに微笑んでいる。
 その喧騒の中で、ふたりだけが静かに立ち止まっていた。

 強く手のひらが握られた。
 瑠璃色の瞳がゆらりと揺れている。
 彼だけは、花火を見ていない。その瞳の中心にカティアを映したままだった。

 いや、カティアも。
 カティアだって、彼しか映していない。
 やがて、終わりの声を上げたのはセオの方だった。

「カティア」
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