顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(4)助けて
いつしか外は、雨が降っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
この時間だからか、はたまた雨のせいもあってか。祭りの最後の夜といえども人の姿はまばらだ。
馴染みの商店街を通り過ぎ、北へ向かうにつれて街並みが変わっていく。石畳は整えられ、高級な仕立て屋や宝飾店が静かに軒を連ねている。
人の気配が遠のくほどに、雨音に混じったカティアの足音ばかりがぱしゃぱしゃと夜の街路に響いた。
(私が、セオにラピスのことを隠したから罰が当たったんだ……!)
もっと早く打ち明けていれば。
いくらラピスと離ればなれになろうと、王家にあの子を託すべきだった。
王室病の可能性は、考えられたはずなのだ。あの瞳に八芒星が浮かんだ時点で、いつかこうなるとは想像できた。なのに、カティアはラピスを手放す寂しさから目を逸らし続けた。
ラピスの可愛い笑顔に甘え、あの子との穏やかな日々を守ろうとばかり考えて――結果、あの子から王家の庇護を、適切な治療を、父親を、全部奪った。
(母親失格だ)
いい母親でありたかった。
あの子にだけは、胸を張れる自分でいたかったのに。
「ラピス……!」
叫びは雨音に溶けて消える。
せめてラピスだけでも、この先、元気で暮らしてほしい。
そのためならば、カティア自身がどうなろうと構わない。罪人として裁かれようと、二度とラピスに会えなくなろうと。あの子の命には代えられない。
――その一心で走り続けた足が、ふいに止まる。
(見えた……!)
夜闇の向こうに、街灯に照らされた大きな建物が浮かび上がっている。
重厚な石造りの門構え。あそここそ商業都市レイネが誇る最高級の宿だ。
門の前には屈強な衛兵が左右に立ち、その奥にもいくつかの人影が見える。王都から随行してきた近衛だろう。皆、厚手のコートを纏い、春の冷たい雨に打たれようとも微動だにしていない。
平時にはあり得ない物々しさが、ここが国王陛下の仮の住まいであると物語っている。
「…………っ」
怖い。怖いけれど、迷っている暇はない。
雨に濡れ、すっかり貼り付いた前髪を掻き上げる。そうしてカティアは息も整えぬまま、門に向かって駆けた。
「何用だ!」
たちまち衛兵が動いた。槍を交差させて道を塞ぎ、鋭い眼光がカティアを射抜く。
「待って、お願い! 中にいる方に取り次いでほしいの!」
「ここにおわすお方が、どなたなのかわかっての狼藉か!? 去れ!」
ネグリジェにカーディガン一枚羽織っただけの女が、濡れそぼったまま、息を荒げて駆け込んできたのだ。不審者以外の何者でもないだろう。わかっている。でも――。
「助けて!」
声を振り絞った。
「ここにセオが――国王陛下がいらっしゃるのでしょう!? 私はカティア! 名前を言ってくだされば、きっとわかってくださるから!」
衛兵たちの表情が、はっきりと歪んだ。
その意味は、警戒と侮蔑だ。とてもではないが、カティアの言葉を信用できないのだろう。
「深夜に押しかけた挙句、陛下とお知り合いだと? 身の程を知れ!」
「お願い、聞いて! 子供の命がかかっているの!」
必死に食い下がるカティアを、衛兵たちが押し返す。でも、ここで退くわけにはいかない。
「ラピスの――『星の子』の命が危ないの!」
瞬間、衛兵たちの顔色が変わった。
「『星の子』とは、また随分な騙りだな」
「アビゲイル様やロニー様もおられるというのに。次から次へとでまかせを」
ロニー。知らない名前に引っかかるも、考えている余裕などない。
(このままじゃ駄目。まともに取りあってもらえない。だったら……!)
カティアはキッと、視線を上階の方へ向け、息を吸う。
(ここから直接、声を届けるしかない!)
そして、夜空に向かって叫んだ。
「セオ! お願い! この声が届いているなら! ――ラピスが、危険なの! すごい熱で、瞳に八芒星が出て……! あの子は、あの子はあなたの――」
「黙れッ!!」
「きゃっ!?」
最後まで言い切る前に、胸元を突き飛ばされた。
ばしゃん!と水たまりがしぶきを上げ、カティアは背中から石畳に叩きつけられた。
「……ぁ!」
冷たい地面。あまりの衝撃に、まともに呼吸すらできない。
「お前ごときの虚言に付き合うほど、陛下は暇なお方ではない」
「これ以上騒ぐなら投獄する。――消えろ!」
靴音が冷たく響き、衛兵たちは再び門の前に戻っていく。
倒れ伏したままのカティアには、もう一瞥もくれなかった。
(――駄目だ)
叫んでも、縋っても、カティアの声は誰にも届かない。
力のない平民の言葉など、門ひとつ越えられない。
(ラピス、ごめん……約束、守れなかった……!)
石畳に爪を立て、どうにか身を起こした。
(あそこに、セオがいるのに)
髪からぽたぽたと雨の雫が落ちる。よろめきながら立ち上がると、門の向こうに灯る明かりが、ひどく遠く見えた。