顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
――陛下!と呼ぶ声が背後から聞こえてくる。
「今、馬車を用意させていますから!」
しかし、それを待ってはいられなかった。
雨に濡れるのも厭わず、セオはひとり馬を駆り、濡れた石畳の上を駆け抜けていく。
(なんてことだ……!)
セオが気付くのはいつだって遅い。
全てが終わって、間に合わないとわかってからだ。
今回だってそう。
(カティアがすぐそこまで来ていたなんて)
アビゲイルの話を聞いて驚いた。カティアがこの雨の中、濡れ鼠になってまでセオに会いに来ていたなんて。
(助けを求めていたのに、俺は……!)
レスターの言うとおりだった。後悔するのにいっぱいいっぱいで、カティアの声が届いてなかった。
この雨だ。外で叫んだところで、彼女の声が最上階の部屋の中まで届くはずない。
それでも、アビゲイルが気付いて騒いでいなければ、カティアが助けを求めに来たことすら気付けなかったはずだ。
レイネに同行していた侍医を叩き起こすよう指示を出し、セオは単身、彼女の家がある商店街の方まで、無我夢中で駆けていく。
何名かの騎士が先行して追ってきているようだが、それを待つ余裕もない。
銀色の髪が濡れて、額へ貼り付く。邪魔なそれを払うことすら煩わしく、セオは全力で馬を駆った。
ようやくノーラの雑貨屋が見えた。
彼女の家はあの建物の二階。玄関ベルを鳴らせば気付いてくれるだろうか。――そう考えたとき、誰かの影に気がついた。
「ノーラ!」
「え?」
ノーラだ。まだ雑貨屋で仕事でもしていたのか。ちょうど彼女が、店の外に出てきたのだ。
「一体誰――って、セオかい!? え、馬!? どうしてそんな、びしょ濡れで――」
「カティアは!?」
髪色の違いに違和感を覚えているのだろう。地面に降り立ったセオの頭に視線を向け、さらにセオの後ろから大勢の人間が追ってきているのに気付いてギョッとする。
「っ!? あんた、一体」
「なあ、カティアは! ラピスは無事か!?」
彼女の質問に答える余裕などなく、矢継ぎ早に問う。
「医者を連れて来た! 今すぐ家に上げてくれ!」
「っ! ……なるほど、わかったよ」
ノーラは戸惑いながらもしっかりと頷き、閉めたばかりのドアを再び開ける。
セオは後ろに到着した騎士に手綱を預け、ドアの合間に滑り込むように中へ入っていった。
「あ!? ねえ、セオ!?」
後ろからノーラの慌てる声が聞こえてくるが、待つ余裕なんてない。
早く。少しでも早く、彼女の、そしてラピスの顔が見たかった。
勢いのまま階段を駆け上がり、見えたドア。廊下にしたたり落ちている水滴のあとを辿り、開け放つ。
「カティア!」
バンッ!と勢いよくドアを開け放つと、ベッドの前で膝を折っていた人物が振り返る。
ミルクティーベージュの髪は湿っており、アクアブルーの瞳は濡れている。
着替えたばかりなのだろうか。それでも、寒さで顔を真っ青にした彼女。驚きで見開かれたその瞳から、大粒の涙がひとつぶこぼれ落ちていた。
「セオ……?」
信じられないとばかりに、カティアは呆けたまま。そして彼女が身を寄せるベッドの上では、熱に浮かされて頬を真っ赤にしたラピスの姿も見える。
後ろから、数多くの足音が聞こえてくる。その音で起こしてしまったのか、ラピスがゆっくり瞼を持ち上げた。
ラピスラズリの瞳。セオと同じ色彩を湛えた瞳が、今は弱々しく光っている。
そして、その向こうに八芒星の輝きを見た。
「陛下! お待ちくだされと、あれほど……!」
背後から、侍医が追いついてきた。
どうやら彼も、馬車を待つことなく馬で先行させられたようだ。年配の身には、相当堪えたのだろう。膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返している。
だが、ベッドの上の子供を一目見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「陛下。その御子は――」
「俺の息子だ」
声が震えた。まさか、こんな形で口にすることになるとは思わなかった。
「王室病だ。――王の名において命ずる」
振り返り、侍医の目を真っ直ぐに見据える。
「この子の命を救え。なんとしてもだ!」
追いかけてきた者たちが一様に息を呑み、雨音だけが静かに響いた。