顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして
(6)朝焼けと懺悔と
◇◇◇
侍医の処置が終わると、慌ただしかった部屋から少しずつ人が引いていった。
まずフロゥが、音もなく廊下へ消える。続いてセオの腹心だという眼鏡をかけた男性が。
最後に残ったノーラも、控えていた騎士に促され、外に出ていく。後ろ髪を引かれるような様子だったが、今、彼女の疑問に答える余裕はなかった。
扉が閉まると、部屋にはラピス、そしてセオとカティアの三人だけが取り残される。
雨はいつの間にか上がっていたらしい。
部屋にはラピスの小さな寝息だけが静かに響いている。
先ほどまでの苦しげな呼吸が嘘のように、穏やかな顔をして眠っていた。
溢れる魔力を引き抜く治療とともに、薬も効いたのだろう。侍医が処置をしてから間もなく、あれほど高かった熱も少しずつ引き始めていた。
小さな胸が規則正しく上下するのを見て、ようやく、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
(――よかった)
もう、大丈夫。
安堵が胸に広がると同時に、張り詰めていたものがゆるんで、また視界がじわりと滲んだ。
けれど今は泣いている場合ではない。カティアは傍らに立つ銀髪の男性に目を向ける。
セオだ。彼は椅子にも座らず、じっとラピスを見下ろしている。
その横顔を見て、カティアはようやく気がついた。
(びしょ濡れじゃない)
銀色の髪は額に張りつき、コートの裾からは雫が滴り落ちている。
軽く着替えだけ済ませたカティアとは違う。彼はあの雨の中を駆けつけてくれてから、ずっとこのままだったのだ。彼の足元には、いつの間にか小さな水溜まりができている。
ラピスのことで頭がいっぱいで、すぐ側にいた彼を見る余裕がなかった。
棚から布巾を取り出し、そっと差し出す。
「セ――……陛下、こちらを」
危うく名前で呼びかけそうになって、慌てて言い直した。
もう、そんなふうに呼べる間柄ではない。
けれどセオは、差し出された布巾に目を向けようともしなかった。視線はラピスの寝顔に注がれたまま、身じろぎひとつしない。
まるで、目を離したらこの子が消えてしまうとでも言うように。
(そんな顔、しないで)
胸が痛んだ。
身体は冷え切っているに違いない。放っておけば風邪を引く。
逡巡した。――けれど。
カティアはそっと手を伸ばした。
濡れた銀髪に布巾をあてがう。
さらり、と。指先に冷たい感触があった。
銀の柔らかな髪。ラピスと全く同じ感触に、胸が痛くなる。
そんな震えるカティアの手を、彼の大きな手のひらがそっと捕まえる。冷え切っているはずなのに、その手つきに、カティアは彼の温もりを見た。
「――ラピスは、俺と血の繋がった息子だったんだな」
噛みしめるように呟く声は静かで、責めるような響きはない。
それでも、カティアにとっては終わりの合図だ。
静かに息を吐いた。
覚悟はしていた。この街でセオと再会してから、いつかこの日が来ると予感していた。
セオの手のひらの中にあった指先を、そっと引き抜く。そうしてベッドの脇に膝を折ると、深く、深く頭を下げた。
「……申し訳、ございません」
声が震えた。それでも、言わなければならない。
「私は、陛下の御子を誘拐した罪人も同然です」
もう後戻りはできない。
カティアはセオを騙した。王の子を隠し、『星の子』であると知りながら、名乗り出なかった。国家に対する反逆と言われても、否定のしようがない。
よくて生涯幽閉。悪ければ死罪。
それが、ラピス可愛さに目を逸らし続けた代償だ。
あの子を手放したくないばかりに、自ら名乗り出ることができなかった。セオを信じ切れなかった、自分の弱さの末路だ。
(でも)
自分はどうなってもいい。けれど、あの子だけは。
「どうか――ラピスのことだけは」
床に額が触れるほど身を伏せながら、カティアは懇願した。
「どうか、この子を愛してやってください。――お願い。この子を、ひとりにしないで」