顔も知らない婚約者様の御子を一夜で授かりまして

 いよいよ感情を制御すらできなくなり、本心がこぼれ落ちる。

 セオの人となりはよく知っている。きっとこの人なら、ラピスを慈しんでくれるだろう。
 それでも、このシュタルド王国の王太子という存在が、どれほど孤独な立場になるかはよく知っている。

 明るくて、人が好きな子だ。毎日友達とどろんこになって遊んで、キャッキャと声をあげる我が子が愛おしくてならない。
 そんなラピスが笑顔のままでいられる場所を与えてあげてほしい。
 わがままばかりなのはわかっている。
 でも、もう、セオに縋るしかないのだ。

「っ、待て。顔を上げてくれ、カティア!」

 床に頭を擦り付けるカティアに、セオが駆け寄った。
 彼の大きな手がカティアの肩に触れる。彼の導くまま上半身を起こすと、彼の顔が驚くほど近くにあった。

(駄目だ。この顔を見たら……)

 気持ちが、大きく揺らぐ。

 ラピスだけではない。セオとの別れにもなるだろう。
 カティアは自分が考えている以上にずっと、この人のことが好きだった。
 当たり前だ。たった一夜の逢瀬を、四年間、来る日も来る日も忘れようとしてできなかった人のことだ。

 結局セオは迎えに来なかった。
 でも仕方がないことだ。自分は姿も名前も変え、別の街へ逃げた。見つけられないのも当然だと、自分に言い聞かせた。

 彼との思い出は甘美で、でも、同時に苦くてどうしようもなくなる。だから何度も、自分の心の中から追い出そうと試みた。
 それでも、どうしても追い出しきれなかった。
 だって、カティアにとっては本物の恋だったから。

(そうよ。この人の気持ちはわからなくても。――私は、恋だった)

 どうしようもないくらい、この人に恋をしていたのだ。
 四年越しに、完全なる決別が確定し、つらくないはずがない。

「っ、カティア……!」

 なのに。

「カティア! もうやめてくれ、カティア」

 決別を覚悟したはずなのに。

「俺なんかのために、そうやって頭を下げるのはよしてくれ!」
「どうして」

 ――どうして。彼に抱きしめられているのだろう。
 溢れんばかりに見開いた瞳から、ほろほろ涙があふれていく。

 セオの手も、頬も、身体も冷え切っているはずなのに、くっついた場所が熱い。
 こぼれ落ちる涙を拭うこともできず、カティアはただただ狼狽えた。

「エルカティア・イヴ・リーヴス」
「!」

 長く耳にすることのなかった名前に触れられ、カティアの瞳が揺れた。

「――やはり、君なんだな」

 セオは苦しそうに唇を噛んでから、カティアを抱く腕にいっそう力を込めた。まるで、もう二度と離すまいとするように。

「謝るべきは俺の方だ。俺は、君に取り返しのつかないことをした」
「…………」

 心の奥に、ざあっと風が流れたような気がした。
 だってまさか。そんな言葉、耳にする日が来るなんて思っていなかった。

「俺はあの夜、君に恋をして。君を離すまいと必死になった。俺の瞳には君しか映っていなくて、なんとしても、どんな手段を使っても君を探し出し、君と一緒になると決めた」
「へい、か……」
「セオだ。――どうか、以前のままセオと呼んでくれ」
「――セオ」

 頭で考える前に、口から彼の名がこぼれ落ちる。そうしたらセオが幾ばくか安堵したような顔をして、カティアの頬を撫でた。
 いまだ湿った髪。頬に貼り付くミルクティーベージュの一房を指に絡め取り、そっとその薄い唇を寄せる。

「俺は君のことをあまりに知らなさすぎた。君が、こんな髪の色をしていることも。――君が、本当の婚約者だったことも」
「それは私も」

 そうだ。悪いのはセオだけではない。カティアだって同じだ。
 それを訴えようとするも、セオはふるふると首を横に振る。

「それでも、俺は君に対して責任を持つべきだった。どんな事情があったにせよ、あの朝、君をひとりで帰すべきではなかったし、君をたったひとりにさせるべきではなかった」

 こつんと、額同士がぶつかる。
 息がかかるほどに近い距離。セオの深い瞳は、真摯にカティアを見つめたままだ。

「そのせいで、君を四年。――四年も、ひとりで歩ませてしまった」
「セオ」
「すまない。謝って許されることではないとわかっている。それでも、君に謝罪したい」

 声を震わせ、瞳を揺らし、それでも、カティアと目を合わせてはっきりと告げる。

「すまなかった――」
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